暗い森~“La Commedia”まで

暗い森~“La Commedia”まで

そしてまた、新生してみる。

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昨夜さ、『世にも奇妙な物語』見たわけ。
最近はもう全然見ていなかったのだけど、昨夜仕事から帰った頃に丁度始まったので、見たわけさ。

主題はとても良いものがあった。
アイディアも素晴らしい。
プロットは大体どれも予想の付く展開だったけど、それはつまりまともな脚本家が付いているという証明でもあるし、十分最後まで楽しめるものだった。

世界観は相変わらず詰めが甘くて、どれも脚本の前提として色々破綻していたのだけど、そこはアイディアの良さで強引に押し切って納得させてる様子だった。
まぁ今までもそうだったし、そんなことを言ってしまったらお話にならないので受け入れるとして。

役者の演技も悪くなかった。
下手な芝居もあったけど、それも作品のテイストに合っていたので好印象。

問題は、細かい演出上の粗が多過ぎることだった。
演出上と言っても、演技は良かったわけだから、監督の演技指導には取り立てて気になるものはなかった。
あくまでも、画面上の問題だ。

例えば2つ目の、「夢みる機械」。
主人公の恋人がレストランで、「今日は仕事で疲れてて」的な台詞を言うのだが、彼女の着ているワイシャツはまるで新品のようにぱりっとしていて、とてもじゃないが一日仕事を頑張ってきたようには見えなかった。
いかにも、さっき衣装室で着てきました、という感じのシャツ。
これには思わず「アホか!」と突っ込みを入れてしまった。
その後の展開で彼女は機械だったことがわかるので問題はないとも言えるが、それは理屈でしかない。
実際にはセカンド助監督が、衣装について注文を出さなかったことが原因だ。
多分監督に口を出せなかったのだろうとは思うけどさ、やっぱりちゃんとして欲しいんだ、俺は。

で、3つ目の「通いの軍隊」。
主人公の背負ってる軍用の背嚢に、何も入っていないことが丸わかり。
それだけでない、どの人の荷物も肩紐が浮いてる…!
これには怒りというか、呆れというか、苦笑いというか。
俺が昔やった現場もそうだったけど、基本的に撮影では、役者の荷物には何も入れない。
だからペタんこの鞄とか、ジャンプで役者以上に跳ね上がるリュックとか、そういう馬鹿げた演出がどの現場でも無くならない。
サード助監督が何を言おうと、プロデューサーなんかが「役者様に重いものを持たせるなんて馬鹿かコノヤロー、何様だ」と怒鳴られるのがオチだ。

他にもさ、朝食の場面。
よくスーツ着て朝飯食ってる場面があるけどさ、阿呆過ぎて話にならない。
役者は何も不思議に思わないのか?
上着は出かける直前に羽織るもので、先に着たまま朝食食べるなんてどうかしている。
会社へ行く前に汚したらどうする気だ?
余計なシワを増やしたいのか?
そもそも腕回りが邪魔だろ。
現場には、一人でも会社員をやったことのある人間がいないのだろうか…。
流石に今回の話ではそこを守って、ワイシャツで朝飯を取っていたから一安心。
…のはずが、きっちりと詰められたネクタイにげんなり。

あのさ、男が仕事中に外したくなるもの第一位はネクタイと腕時計なんだぜ、どうしてそれを家で飯食ってる時にもう締めちゃうんだよ。
苦しいじゃねえかよ。
普通ネクタイ締めるのは飯食い終わってからだろ。
どうしてそういう当たり前のことを蔑ろにしてしまうのか理解に苦しむ。

それらはどれも些細なもので、わざわざ突っ込むところではないのかもしれない。
でも俺はこういうのが滅茶苦茶気になってしまって、折角の物語がどれも嘘臭い茶番劇に見えて仕方がなかった。
こんなことだから邦画もテレビも駄目になってるのだなぁとしみじみ。

そんなわけで今回の目玉はラストの「クイズのおっさん」だった。
これはなかなか良かったと思う。
唯一オチが読めなかった。
拙速に過ぎた感はあるけど。
ずっと心にあったもやもやしたものを、出来るだけ丁寧に解きほぐして、現段階での問題点を表面化させてみた。

今の俺の生き方って、結構諸刃の剣なんだ。
無為自然。
色即是空。
そこに幸福を見つける。
一年以上この生き方を通してみると、やっぱり少し弊害と言うか、俗世と相容れない部分も出てくるわけだ。

例えば今の俺に、願望ってそんなにない。
こうなりたい、という形も、昔ほどない。
それはつまり、諦めているから。
現状に満足する気持ちを育て過ぎて、向上心への執着を捨ててる気がする。

頑張ったところで結局、どうなるかを決めるのは世界の気まぐれなのだから、出来ることだけやっていればそれでいい。
どうせ運が全て。
行き着いたところが、自分のあるべき場所。

そんな考え方をしているものだから、なんと言うか、日々楽しいのだけど、こう…若々しさがないような。。

それと、善悪の判断が薄れてる。
どんなにか悪いことであっても、「そんなもん時と場合によってどうとでも判断されるのだし、結局は後の人が決めること」だと考えてしまって、絶対的な正しさにすがれなくなってる。

先日、9才の幼女を説得する一幕があった。
それは消防少年団の楽器決めだったのだけど、指揮者をやりたい子が二人出てしまったわけだ。
俺が提案した、「イベント毎に半分ずつ機会を分け合う」という妥協点を、片方のJCは受け入れたけど、もう片方の9才がどうしても納得をしてくれず、終始泣きべそだった。

それで俺が丁寧に丁寧に時間をかけて説明して、最終的には笑顔で納得してくれたんだけど、その帰り道はずっと一人で考え続けてた。

確かに、紛争を円満に解決した点で俺は周囲から称賛されたし、最後の答えはその子自身に選ばせたのだから、彼女にとっても成長があったのかもしれない。

でも…彼女に妥協点で納得するよう仕向けてしまった自分は、果たして正しかったのだろうかと。
自分が良いことをした、という気持ちになかなかなれなかった。
良いことをした気になっただけで、彼女に苦渋を強いただけではなかったかと。

やりたいようにやらせて、紛争を経験させて、積極的に争わせて、身でもって結果を味わわせた方が、自然で良かったのかもしれない。
どちらも損をしないように、と妥協点を探ったこと自体が、大人の傲慢ではないのか。
泣き腫らした顔で必死に自分の我を通そうとする姿を見ていて、そう思った。

何が善で何が悪なのか、もうわからない。
結局善悪は主観的なもので、当事者や周囲がそれぞれどう捉えるかに懸かっているとしか言えない。
だから俺は自分を決めかねる。
善だろうが悪だろうが、どうせそこに真実はないのだと。

そしてこの生き方が良いのか悪いのか、それもよくわからなくなってきた。
努力するべきところは努力しているし、状況にも恵まれている。
運が良いとしか思えない出来事が、ぽつぽつと続いてる。
それでも日々にもやもやするのは、結果が出ないからだ。
その時々は「おっ、いいんじゃね?」と思えても、結局そこ止まり。
どんなに素敵な状況が訪れようと、それが結果を生まないからやきもきする。

まぁ、生きているということ自体が状況なら、そもそも結果などというものは死以外に存在しない。
だから、結果を求めること自体がおかしいのかもしれない。

でも結果がイメージできていないと向上心が持てないし、下手にイメージがあるとその通りにゆかない現実を呪ってしまう。
そんなわけで堂々巡りは続く。

楽しいかと言われたら楽しい。
とてもじゃないが、もう二度と死ぬ気になんてなれない。
どれ程愛情というものが独善的で、嫌なことばかりが起こる人生だったとしても、この世に生まれた以上は確実に幸福がある。
生きていて良かったと思えることが、必ずある。
ここにある命程、有難いものはない。

今は人生の空虚と、その空虚が如何に豊富な真実で満たされているかという実感に、向き合っている時期なのだと思う。
客観的には、「あの人苦労ばかりだし、結果も出せてないし、独り身だし、お金もないし、あんまり微笑ましい話題すらもないけど、なんか割と本人は人生楽しんでる感じだよね」っていうような。

本当は結果、出したいんだよ!
でも出ないなら、それで仕方ないだろっ!
自然に結果は出てくると、信じるしかなかったんだ。
状況はとっても良いんだからね…。
2、3日が経つと、その日をずっと支配していた心の昂りや、のぼせや、期待なんていうものはすっかり姿を消す。

今では夜寝る前に、いつも思う。
今日ここに自分は死んで、明日はまた新しい自分へと生まれ直す。
激情は、引き継げない。

今日は昨日となって、いつの間にか遠い思い出になるばかり。
どこにも実体はなく、今もまた曖昧な時間の隙間で、そこにただ漠然と生きている自分こそが生存そのもの。

今日から明日へ引き継げるものは、固定された思い出と、考えていることだけ。
感じること、考えることは出来ても、味わうことが出来ない。
状況を味わうなんて、難易度高め。
そう思っていたところだ。

結局人間は状況の生き物という言葉が正しいなら、ああいう状況は人の気持ちすらも変え得るものでないといけない。
そして、実際に状況は訪れ続けてる。
でもそれが、明日の気持ちへ活きてこない。
それに少しがっかり。

ただこの指に、感触は残っている。
零距離で触れ合った指の感覚は、案外しばらくは消えないものだと気付いた。
結果ではなく、その状況だけが重要だったのだろうか。
だとしたら、それは今後に何も生まない。
それを受け入れて楽しめというのか。

なるほど、難しいものだと思う。
でも、それしかない。
今日結婚式の仕事で大きなミスをしたんだが、キャプテンに謝りに行ったら全く怒られず、逆に謝られた。
一手間を増やしてしまったサービスさんも、笑って許してくれた。

正直に言って、俺じゃなかったら相当怒られていたと思う。
普段から笑顔で挨拶をして、丁寧に仕事をしてきたから、助かったのだと思う。

あんなに肝を冷やすような、空前の大失敗だったのに、お開き後はもう笑い話になってた。
いつも明るく笑顔で頑張ってきて本当に良かった。

そして、そういう働き方が特に板に付いてきたのは去年から。
きっかけはもちろんあの人だったし、結果的に自分のためになることばかり経験をして、その意味でも充実は感じてる。

なんとなくそれを哀しく感じるという感覚は、前に書いた通り今もあるわけだけど、それもやはり自分の存在をどう捉えるかという問題なのだと思う。

一瞬ではあったけれど、今日あの人を見て思った。
これで良いんだ、と。
忘れているようでずっと覚えている感覚が、今日もあった。
今後どうなるのかも楽しみだし、気楽に考える余裕も今はある。

何もかも、なるようになるだけ。
日々何百回と心の中で繰り返すその言葉があったから、今日の失敗に対しても不思議と卑屈にならずにいられた。
誠心誠意、それでいてあっさり謝ったのもそのためだから。

まぁ、あの人が見てなくて良かったかもね。
下にケーキがあるのにスクリーンを降ろして、新郎新婦より先に一刀両断してしまうという最悪のミス。
間違った判断だった。
結局殆どの方が意識しないまま裏でケーキは交換されて、進行に支障は出なかった。

あの人が知ったら、どう思うのかな。
祭りの後は、静かな時間だ。
片付けが済めばそこには、もう何も残っていないような気にさえなる。

その時間を、余韻を、穏やかに迎えること自体はとても有意義な気分だ。
そして同時に、何もかも吐き出してしまいたい衝動に駆られる。

修飾されない空虚な自分こそが本来の自分であって、そんな空っぽの自分ほど心満たされるものはない。
毎日コーラばかり飲んでいる人間が、ふと真水の美味さに気付くようなものでさ。
何も持たない、透明ですっかすかな命にこそ、安らぎを感じるんだよ。

普段自分を生きていること、それは楽しい。
人と関わって、人のためになる仕事をして、感謝をされて、時には迷惑をかけて、笑ったり悩んだり、良い友達に恵まれて、好きな人と一緒に働けて、これ以上ないほどに納得した人生を生きてる。

でも時折、ふと哀しくなる。
理由はまだよく分からない。
矛盾しているけれど、自分がこの人生を楽しんでいることが何となく哀しい。

もちろん楽しんでいるとは言っても、思い通りにならないことばかりであるのは事実だし、それを素直に受け入れることで生まれている楽しさではある。
それがどことなく擬似的なものでしかないから、哀しいんだろうか。
そうも考えた。

でも、違う。
この余裕や、楽しさや、幸せは、ホンモノだ。
俺は運が良い。
この年齢で、こんな風に内面と向き合っている男は多分たくさんいるんだろうが、そういう男は往々にして現状に満足しないものだ。
でも俺は満足してる。
なのに、それが哀しい。

だから寧ろ、満足もせず、不満にも思わず、何も感じていないような状態に平安を見る。
刀折れ矢尽きた自分が、何もできない自分が、人に好かれない自分が、空虚な自分が、なぜこれ程の安心感をもたらすのか。
堂々と生きて、何でも受け入れて、人のために尽くせる自分が、なぜこれ程に哀しいのか。

そもそも、主体が違うんだろうか。
意識というのは所詮、脳の電気ネットワークが産み出した見かけ上の存在に過ぎないという意見がある。
細胞の一つ一つが、それだけで独立した生命体なのだし、確かに自分を生きているのが自分だけだとは限らない。
俺が寝ていたって心臓は動く。
俺の満足は結局意識だけの満足であって、身体中の細胞は満足していないとでもいうのだろうか。

こんなに飛躍した考え方でも、今の感覚を説明できる答えには辿り着けそうもない。
病気だと言うなら、あるいはそうなのかもね。
ただ、自分の監察には長けているつもりだからさ、ちょっと興味深いわけ。

一つ気になることがあるとすれば、そう。
人は笑うと、目に見えない影が出来る。
時間に影が出来る。
影は時間に焼き付く。
とびきり良い笑顔は、それだけ暗い影を時間に残す。
目を凝らしたって見えやしないその笑顔の痕跡に、祭りの後のような感覚を覚える。
そういう、ことなのかもしれない。

父親がこの4月から、サラリーマンじゃなくなった。

昔から調子の良いことばかり好んで、細かいことが嫌いで、どうしようもない呑兵衛で、かなり喧嘩もしてきた。
人や物の名前をすぐ忘れるし、口を開けば同じ昔話ばかり、知らないことをさも知っているかのように振る舞うし、ずっとあまり良い父だとは思っていなかった。

それがこの数年間で、父を見る目はかなり変わってきた。
何よりも家族のために働いてきたんだこの人は、と感じることが多くなったから。
52なのに、昔気質だとか古い男みたいな生き方を大事にしている人だから、普段野暮なのはもう仕方がなかったというだけだ。

東京出身で、学歴は中堅。
東大や慶早の同期が大都市の花形支社に勤務する一方で、父が最初に配属されたのは甲府だった。
まぁそこで母と出会ったわけだが、甲府は全国でも最小規模の、いつ無くなるかもわからないような辺鄙な支社だった。

以降全国あちこちに転勤を重ねて、努力して出世もして、年収もどうにか大台に入って、そして今回の人事だった。
当然日経にも載った。

会社員の決まりとして、先日辞令と引き換えに退職届を出したという。
今後は従業員でないのだから、当然か。

ここに来て、父親を尊敬しないわけにもゆかない。
従業員が一万人いる大企業にあって、ただの一社員が頑張って到達できるレベルじゃない。
同期でもこれだけのし上がってゆく平社員は父だけというから、それはもう凄いことなんだと思う。
だから素直におめでとう、と声をかけた。

普段父親を馬鹿にすることも多かったけれど、俺は父と同じようには働けないし、同じだけの金額は絶対に稼げない。
何しろ今日、新しい規定を見せてもらった。
今月からはもう「給与」じゃなかった。
今まで以上に、庶民からしたらそれはまあ異常な額だった。
うちが元々貧乏性だからかもしれないけれど。

自分が社会である程度生きてみて、初めて父親の凄さはわかるものなのだとつくづく思った。
これは昔から、あらゆる人々が口々に言ってきたことでもある。
こういった経験者の格言は、実感しなければ分かることが出来ないというのはもどかしいばかり。

今回の人事がなくとも、俺はようやく父親の頑張りが分かってきたところだった。
もっと早くからそうであればと思うか、早いうちに分かることが出来て良かったと思うか。

個人的には、後者でいいと思ってる。
肩書きなんかなくとも、俺は父親を尊敬してるよ。

いろんな意味で、思った通りになった日だったかな。
今日は。

俺の座右の銘はずっと「英雄色を好む」だったわけだが、今年に入ってより強く自分を動かす信条がある。

どうせ思った通りにはゆかない。
これは去年から変わらず。

それでも、流れに身を任せれば7割くらいの満足は得られる。
これはやっぱり今日も感じた。

なるようにしかならず、全て決まっている。
これも去年からの信条。

それに加えて最近感じることが一つ。
あらゆる選択は最善である。

つまり今日も、すごく大切なチャンスがあったのだけど、選択を間違えて失敗した。
せっかくのチャンスだったのに、と後からはいくらでも後悔できるし、悔しくなる。
あの時こうしておけば、と人間は誰でも振り返る。

でも、多種多様な理由から自分がそう考え、迷い、決断し、選びとったのは事実。
ということは、何度やり直せたとしても、きっと同じように考えて、同じ結果を出してしまうのだろう。

ならばそれはもう、そうなるしかなかったということで、最善の選択であったと認めるしかなくなる。
今日の失敗にしてもそうで、後からならどうとでも言える。
でもその時は、そうするしかなかったということだから。

全体的に振り返れば、今日は決して悪くなかった。
昨夜の段階で今日がどんなものであるかは何故かわかっていたし、大体その通りに進んだ。
直感が当たる日は、怖いくらいに当たる。

逆に言えば、あの時と同じように「必要な日だった」と。
帰りに一礼した時、祈った。

今日起こった物事が、自分の選択が、全て最善でありますように。
最近携帯の着信音を変えた。
ずっと使っていた月の光から、糸を紡ぐグレートヒェンに。
そしたら何故か着信に気付かないことが多くなって、大事な電話が取れないなんてことも。
どうしたものか。。

月の光はまあ好きだったし、何ら問題はなかったのだけど、最近またゲーテに触れることがあって、熱っぽくなったわけ。
俺は元々この曲を知らなくて、普通にファウストを読んでた。
で、それからあの場面にシューベルトが曲を付けていたことを知ったという。

今は俺も簡単なドイツ語なら読めるので、歌詞も原語で楽しめるわけだけど、一番最初に読んだのは見事に翻訳された日本語版だった。
原語の歌詞よりも良いじゃないか、と言いたくなるほどの和訳でさ。
もうグレートヒェンたまんねえなって感じ。
特に最後の台詞なんだけど、普通の訳なら「死にたい」「息絶えたい」とするところを「ほろびたい」と訳したこの才能、すごい!

俺が読んでたのはヘリテージ文庫版なので、興味があったら是非是非。

とりあえず、着信の音量上げてみよう。
経験というのは、馬鹿に出来ないものだと感じる。
こういう日は経験上何かある。
そう思っていた結果、見事に的中した!

ただ、ここから先はもう未経験だ。
経験はものを言えない。
直感しかない。

俺はさ、今日思ったよ。
去年一年間ですっかりものにした、この笑顔と明るさと前向きな生き方。
これは、今日のために身に付けたのだと。

今日を乗り越えられるように、変に落ち込まないように、しっかりと今後出来ることをするために、身に付けたのだと。

もう俺に絶望なんか似合わん。
余裕綽々で楽しむことができるさ。

今日必要だったから、身に付けた。
こんな考え方も本当にアリだと思う。
人生必要のないことなんてない。

生きる見通しは、さっきしっかりと立てた。
これでもう迷うこともない。
あとはまあ、頑張れ!
このまま目が醒めなければいいのにとか、もう全部終わればいいとか、今日はもう生きなくていいやとか。
昔はよく思ったものなんだ。

だから、ちょっと久しぶりだ。
そんなことを思うのは。
朝出かけるたびに考えてしまう。

このまま誰かが轢いてくれたなら。
どこかで斃れてしまえたなら。

こういう気持ちは、抑え込む必要はない。
素直に感じて、感じ続ける。
今は、そういうことを考えてしまうのは仕方ないし、一時的なものだから下手に溺れなければ大丈夫。

食欲もなければ、性欲もない。
ただ眠りたい、何も考えずに。
目を閉じて、時間が経ち続けるのをこの皮膚に感じていたい。

誰にも会いたくない。
遊びたくない。
あらゆる娯楽は虚無と化す。
寧ろ仕事をしていたい。

こういう状態、なんか懐かしい。
でも、ここにまた安堵を抱いてしまっては終わりだ。
それはまあ心配いらないと思うけどさ。

ところで今ごろは俺と同じか、それに近い状態になっているんだろうか。
それとももう、一足先に脱却しただろうか。
俺はもう少しかかりそう。

何のダメージもないつもりだったけど、強がる気もない。
ゆっくり傷を癒して、また進んでいこう。
笑顔忘れずに。