二人が二人であるために。
これからの二人のために。
いろんな相談をのってきた中で
今までの二人のあり方で
ひとつの論が浮かび上がってきた。
僕は
『周りを大切に出来ない人は、愛する人も大切に出来ない』
という想いがあるん。
たとえば
重い荷物を持って歩いている人がいるとする。
それが、相方だったら?
それが、友人だったら?
それが、どこ知らずのお年寄りだったら?
友人だったら助けます。
だから、もちろん相方なら助けるのは当たり前でしょう。
知らない人でも、大変そうだったら助けます。
という人もいるでしょう。
相方なら助けます。
という人もいるでしょう。
そこの気持ち的な違いってあると思う。
見ず知らずの人を助ける人は
『助けたい!』
という自発的な気持ちだと思う。
じゃぁ、相方だから『助けたい!』と思う人は・・・
『相方だから助けてあげたい。助けてあげた』
という意味を持ち始めてくるんかなーっって。
そこで考える。
日頃しないことを、特別な相手にしたときの
心への負担。
日頃は嫌でやらないことを
特別な相手だからする。
(やらないことを)する ⇒ やってあげた
という気持ちを
回数を重ねるごとに湧くのではと。
誰だって、嫌なことや特別な行動をすることは、負担になるじゃん。
その埋め合わせを求めだす心を持ってるんじゃなの?
例)
掃除は好きじゃないけど、好きな人の部屋なら掃除する。
掃除をすることは大変な労力がいること。
⇒疲れる。
この疲れに対してどう思うのか?
たまには自分で掃除してよ!って思う人いるかも?
かわりに買い物行ってきてよ!って思う人いるかも?
つまり、対価的なこと求めだすかと。
好きな人だからしてあげたいと思ったというのは事実だと思うのね。
でも、違う心の部分が覗きだす気がするの。
数値で考えてみた
労力 = 自発的(したいからしただけ) + α =10 とする
分け隔てなく助ける人の労力 = 9 + 1
友人なら助ける人の労力 = 5 + 5
相方なら助ける人の労力 = 2 + 8
自発的な数値が下に行くほど減っていくことがわかると思う。
下に行けば行くほど、行動を起す為の相手の人数が減る。つまり
行動を行う回数は少なく、特別な事だと仮定できると思う。
特別なことだからこそ労力に対して、相手への気持ち、期待は大きくなるんやないかな。
それは+αの部分ね。
+αを自分の気持ちだと仮定すると、+α分の何かを求めたい。
+αを見返りと置き換えることも出来る。
+αを相手の為だと置き換えたら・・・。
こういう考え方も出来る。『特別なことだから相方にしてあげたい』。
しかし、それが回数を重ねた時、相手が何もしてくれないと感じたとき、
不満になるんやない?
相方の誕生日を祝った。でも、自分の誕生日は忘れられていた。
はい。どう思いますか?
まとまりが無くなって来た所で・・・
『友人を大事に出来ない人は、相方を大切に出来ない』というのは
自発的数値が小さければ小さいほど
相手への期待値が増え、
一見、、大切にされてる、していると見えるけど
反対に
大きな+αが邪魔をしだすかもしれない。
自発的数値が大きい人は、人間の器が大きいと言えるかもしれませんね。