大山蓮華 -3ページ目

大山蓮華

ちょっと不思議な体験や感じたことを
古文献や民話や伝承などや遺跡の発掘資料などを参考にして
謎解きをしています

 

                               弁才天を探して 25

                               追跡 月読命

 

     古代史なので記録は残っていません

     出雲王家の伝承と民俗学者の斎木雲州氏の資料を参考にしています

      中国の古文書や遺跡などを参考にしています

     古事記と日本書紀の古代部分は創作だと思っています

 

 

 忌部氏と宇佐津彦の系譜

 

 忌部氏 首祖は玉櫛命

   忌部は803年に斎部に改称している

   忌部氏の祖は太玉命

   815年に編纂された「新撰姓氏録」では高皇産霊神の子

   「古語拾遺」では高皇産霊神の子の𣑥幡千千姫の子で瓊瓊杵尊と兄弟

 

       ビックリです 瓊瓊杵尊と兄弟ですって!  

 

     「古語拾遺」は807年に編纂されたそうです 

      712年に編纂された古事記以降なので 瓊瓊杵尊と記されています

 

 

 

 菟佐津臣

   菟国の宇佐津臣というのは豊国宇佐の宇佐津彦のこと

   宇佐津彦という名は代々世襲していた

   宇佐氏本系図によると高魂尊を祖としている

   高魂尊→天三降命→菟狭津彦→

 

   「先代旧事本記」では高魂尊の子が天三降命その子が菟狭津彦

    「先代旧事本記」は806年以後に成立されたと推測されている

    

 

 

 

 秦王国と築秦王国

   「隋書倭国伝」によると

    豊国は豊前・豊後に分割されましたが

    豊後付近は秦王国と呼ばれていたそうです

   秦から渡来した人々が居住していたということですよね

 

    徐福が居住していた吉野ケ里遺跡付近は

    築秦王国と呼ばれるようになったが

    後に 物部王国とも呼ばれました

    その後は 筑紫国で大化の改新から筑前国・築後国に分割

 

    

 

 

 秦徐福の渡来

   徐福の記事は過去記事に記載しています

 

  紀元前219年に出雲に渡来した徐福はホアカリと名乗りました

  妻子を残して徐福は帰国

  その後 子の五十猛は丹後に移住して香語山(カゴヤマ)と改称しています

    香語山の居住地はたぶん現在の籠神社かな

     籠はカゴと読みます 地域の代表者の住居が後に神社になることがよくあります

 

  紀元前210年再び渡来した徐福は有明海から上陸しました

  徐福はニギハヤヒと名乗り

  同行していた母の千千姫は高木と名乗っていたと伝えられています

 

  ニギハヤヒは 古事記・日本書紀では瓊瓊杵尊と記しています

    現在 天皇家は瓊瓊杵尊を先祖神として崇めています

 

    瓊瓊杵尊という名称は古事記の編纂の頃から使われたそうです

    天皇という尊称も同じで 以前は大王(おおきみ)と呼ばれていました

 

 

 

 さて

  高皇産霊神も高魂尊も(たかみむすび)と読みます

  高木も(たかみむすび)のことです

 

 

 だから

  徐福と忌部と菟狭の天三降命は兄弟ということになりますね

  忌部氏のところでも忌部と瓊瓊杵尊は兄弟と記しています 

  もしかして 徐福と忌部と菟狭の3人だから「三降」なのかな

 

 

 あ~すっきりした

 

 

   宇佐の地域が秦王国と呼ばれていたのは紀元前219年以降かもしれませんね

   紀元前219年に徐福と共に渡来した可能性が高いです

 

 

 さて

  壱岐真根子の子孫の押見が月神を祀っていた

  壱岐真根子の先祖は菟国宇佐津彦の分家なので

  豊国宇佐は月神を祀っていたんですよね