秩父神社の由緒 | 大山蓮華

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ちょっと不思議な体験や感じたことを
古文献や民話や伝承などや遺跡の発掘資料などを参考にして
謎解きをしています

 

 

 

                                          弁才天さんを探して   13

 

 

 

 

 

秩父神社

埼玉県秩父市番場町1-3

 

              初めて訪れたのは 昨年2016年4月・・・

              午後だったので 多くの参拝者がいたけれど

              初めてのご挨拶を申し上げたときには 全身の毛が逆立つように感じました

              自然神である女神さまが いらっしゃったのですね

              帰ってきてからの 眠気とか脱力感はハンパなかった・・・

 

 

 

 

 

秩父神社公式サイトの由緒によると

第十代崇神天皇の御代に

知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が

祖神をお祀りしたことに始まるとされており

武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っております

中略

中世以降は関東武士団の源流 平良文を祖とする秩父平氏が奉ずる

妙見信仰と習合し 長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが

明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました

以下略

 

 

 

 

 

秩父神社には 平成元年に新宮司が就任することになり

社報「柞乃杜」(ははそのもり)を創刊しました

 

その創刊号に宮司薗田稔氏が由来について述べています

その一部を転載します

 

遠いむかし「知知夫之国」と呼ばれ

武蔵の国の成立よりも以前に開拓された古い土地柄であります

古代の大和朝廷が地方を治めるのに当初は(くにのみやつこ「国造」)という

地方長官を任命したのですが

秩父にもいち早く智恵の神・八意思兼神の十代めの子孫である

知知夫彦命がこの長官に任じられて「大神」をお祀りしたと

平安時代に書かれた中央の古文書「国造本紀」にとりわけ詳しく記されております

この「大神」さまが八意思兼神なのか何の大神なのか議論の分かれるところですが

私どもはそのどちらでもあると考えております

「大神」とは 秩父の大いなる地主の神 国魂の神としての大国主神であられるのです

古くは 特別お名前を呼ぶ必要も無く ただ「大神」と称え申し上げたに相違ないのですが

のちに中央の歴史にかかわって特殊な御神格を帯びられるようになる

しかも この神様が鎮まるところが武甲山である

 

 

 

 

   「国造本記」というのは 「先代旧事本記」の一部です

   「瑞籬朝御世 知知夫国造りに知知夫彦命が定められて 大神を拝祠した」

   と記されています

   

   瑞籬朝御世 というのは

   崇神天皇の時代 ということらしいですが

   崇神天皇は 3~4世紀頃に実在していたする説が現在は有力なようです

   

 

   <ここで重要なキーワードは 「大神を祀った」ということと「武甲山」

 

 

   薗田稔宮司は 大神は大国主神と述べています

   のちに 中央の歴史にかかわって特殊な御神格を帯びた・・・

   つまり・・・

   最初に祀られたのはオオクニヌシであり

   その後 朝廷によって改称させられた?

 

 

 

 

 

秩父郡・横瀬町の公式サイトによると

 

かつて 武甲山の山頂には

蔵王権現社や熊野権現社・大通両権現社などやその末社が鎮座していたと伝えられています

蔵王権現社が本社で 明治初期に御嶽神社と改称されました

 

   →権現というのは 仏教における神さまの呼称なので

     神仏分離令によって 神社と改称した場合は権現と呼称できません

 

 

 

横瀬町の八坂神社の屋根裏から棟札が見つかっています

そこには 「報謹清天思兼命牛頭天王」と記されていたそうです

   何だこれは

   天思兼命牛頭天王という神名なのか

   まさかねぇ

   八坂神社といえば牛頭天王

   中央の政治的判断とやらで 後から天思兼命を合祀したのだろう

   かつてこの社は小高い山頂に鎮座していたが

   遷座・建立されたのが弘化三年八月吉日(1846年)

 

 

 

 

 

 

武甲山

 

この画像は登山情報サイトyamakei からお借りしました

 

 

 

 

横瀬町の資料などによると

   

   武甲山の表参道は 

   飯能から吾野を抜けて横瀬町からの登山道だったらしい

   朝鮮半島から渡来した人達がいた頃には すでに蔵があったという

   この蔵は災害があったときなどに開けて救済し援助していたという

   渡来人がいた頃 この蔵のところに蔵王権現社を建てたと伝えられています

   蔵王権現社の神職は 諏訪の守屋氏の末裔が代々務めているという

 

 

   < キーワードは 「すでに蔵があった」と「諏訪の守屋氏の末裔」

 

 

   蔵王権現社を建てる以前に 諏訪から出雲族が来ていたのだろうと思いますが

 

   すでにあった蔵というのは

   諏訪大社ではタケミナカタトミノミコトを祀っているので

   タケミナカタトミノミコトが諏訪に入る前の

 

   オオクニヌシを祀る出雲族がこの地に来ていたことは否定できません

 

 

   守屋氏は 物部守屋35世後裔と伝えられているらしい

   35世後裔 ・・・ 36世の兄弟の子孫ということだろうか

 

   

 

 

 

 

   秩父に渡来人を入植させたのは鉱物などの採掘のためのようです

 

   708年に 秩父黒谷で自然銅が発見され 朝廷に献上されています

   このことは

   朝廷との係わりが さらに大きくなっていった一因でしょうか

 

 

 

   養蚕の技術は秦氏によって伝えられたようです

 

 

 

 

「新編武蔵風土記」の中の

「武甲山蔵王権現記」によると 武甲山の由来は

ヤマトタケルが冑を置いて鎮護国家のために武甲山と名づけたらしい

その前は 蔵王権現と呼ばれていた

白鳳十二年 天武天皇の勅により役優婆塞が金剛蔵王権現を祀った

蔵王権現は本垂迹で 吉野金奉山の本地は盧舎那仏なり・・・

 

 

   役行者は 

   秩父・今宮神社(旧 今宮坊)に八大龍王を祀ったと伝えられています

   今宮神社の龍神池は 武甲山の伏流水と伝えられています

   ⇒今宮坊とは修験の道場で今宮神社や隣の金剛寺などを含めた呼称です

 

 

   武甲山という名称は

   武甲山資料館によると

   元禄時代に

   日本武尊が武具を埋めたという伝説が伝承されたことから

   武甲山と呼ばれるようになったらしい

 

   元禄時代(1688年~1704年)からの伝承らしい・・・

   ヤマトタケルの時代には 

   武甲山とは呼ばれてはいないので

   この「武甲山蔵王権現記」の資料の一部は参考になりませんね

 

       ヤマトタケルについては

       あまり関心が無いので 別の機会に触れてみようと思います

 

   < 参考になるキーワードは 「天武の時代に役小角が蔵王権現を祀った」

 

 

 

 

 

 

 

 

     「歴代天皇事典」によると

        29代欽明天皇 在位は539?年~571?年

        38代天智天皇 在位は668年~671年

        40代天武天皇 在位は673年~686年

        41代持統天皇 在位は690年~697年

        42代文武天皇 在位は697年~707年

 

 

 

 

朝鮮半島からの渡来人の移住

 

 660年百済滅亡 668年高句麗滅亡

 大和朝廷は 受け入れた渡来人を

 天智天皇以降 強制的に(?)関東に移住させた

 記録によると 「天智五年 百済人男女二千余人当国移住」 を始めとして

 武蔵国・常陸国・下野国など

  712年に設置された高麗郡(現 日高市)

  758年に設置された新羅郡(現 新座市)

  下野国の多胡郡(現 高崎市)など

  (現存する多胡碑には「和銅4年(711年)に設置された」と記されているらしい)

 

 

  日高市の高麗神社の公式HPには

  霊亀二年(716年)1799人の高麗人が入植し原野の開拓にあたりました

  大和朝廷はこの地を高麗郡と称し高麗王若光を首長としました

  郡民は霊廟を建て高麗明神として崇めた

 

  

  妙見信仰は

  渡来人によって伝えられたともいわれています 

  

 

 

 

 

701年大宝律令が制定され 

国・郡・郷は二文字を充てる「好字二文字化令」が713年に交付され

秩父の文字に定まった

 

 

           文武・持統天皇そして藤原不比等のころには

           神社や祭神に 大きな改称があったようです

 

 

「延喜式神名帳」は927年にまとめられたとある

「延喜式神名帳」というのは律令制における朝廷が認めた神社の一覧表のこと

秩父神社は878年に神階四位と記されている

 

 

 

 

 

 

      古代の日本では 

 

      人を神として崇めてはいない!

 

 
 
 
 
 
秩父大宮妙見宮縁起には
 
欽明天皇の御宇
国司のもふしあげにより大星大神ならびに香香背男命を
真名井の原に勧請し祝祀給ふ
 
     大星大神は北極星のことで 香香背男は北斗七星のことらしい
     どちらも星の神ですが鉱物を探すための方向を知るために祀ったのでしょうか
 
     真名井の原は
     武甲山の北側にあったらしい(石灰岩の採掘が行われているところ)
 
     天武天皇の時代になって
     星の神は大己貴命と習合して中野原(現 宮地)に祀ったらしい
 
 
允恭天皇34年知知不彦9世孫の狭手男臣(さておのおみ)が
遠き御祖の御霊を柞乃杜に祀り
このとき始めて知知夫神社と請し祀り給う
 
1235年秋9月に 落雷があり社伝は焼失した
秩父・真名井原(現 宮地)に鎮座していた妙見神を
秩父神社の鎮座する柞乃杜(ははそのもり)に合祀した
秩父神は摂社に祭られた
これにより秩父大宮妙見宮と称し・・・
 
明治の神仏分離令により
秩父大宮妙見宮は 秩父神社に改称され
祭神は妙見菩薩から 天之御中主神に改称された
 
 
 
 
「新編武蔵風土記稿」には
大宮郷 妙見社
当社は 延喜式神名帳に載たる本郡二座の一 秩父神社なり
天武天皇白鳳四年(675年)の鎮座にして・・・
祭神は 大己貴命なること疑いなかるべし
 
 
 
 
 
 
 
 
   これらの資料を基にした 秩父神社の由緒

 

 

 

    欽明天皇の時代に

    武甲山の北側の真名井の原に大星大神と香香背男を祀ったが

    天武天皇の時代に中野原(現 宮地)に遷座して 妙見社とした

 

 
    天武天皇の時代に 武甲山に蔵王権現を祀ったが
 
    それ以前に オオクニヌシが祀られていた可能性は高い

 

    横瀬町や秩父市などで

    スサノオや猿田彦を祀る神社は 

    元はオオクニヌシを祀っていた可能性が高いです

 

 

 

 

 

 

    秩父神社は

 

    武蔵風土記によると

    天武天皇白鳳四年(675年)に鎮座で 祭神はオオクニヌシ(大己貴命)

    平成元年の社報に薗田稔宮司も 最初はオオクニヌシと述べている

 

    その後 

 

    天武・持統の時代に

    祭神は 朝廷の政治的判断で八意思兼に改称された可能性が高い

    薗田稔宮司は 中央の歴史にかかわって特殊な神格を帯びたと述べている

 

 

 

    平良文(村岡五郎良文)は

    秩父神社と関わりなく 個人的に妙見菩薩を崇めていたと思われます

    平良文の時代には

    秩父神社に 妙見さんは祀られていません!

 

 

 

    秩父神社は二度焼失している

 

    1235年9月に落雷により社殿は焼失した

    このときに宮地の妙見菩薩を合祀するのだが

    1314年に遷宮祭が行われたと記されている

 

    妙見さんがセンターとなったので

    これにより 秩父大宮妙見宮と改称された

 

 

    秩父神社は1569年7月に 戦火によって社殿は消失

    1592年 徳川家康によって再建されている

    社殿に彫られている虎さんや龍さんなどは

    左甚五郎の作と伝えられているのも納得できますね

 

 

 

 

    明治の神仏分離令によって

    「秩父大宮妙見宮」 は 「秩父神社」 に改称されました

    同時に

    「妙見菩薩」は仏教による呼称なので神社では使うことはできないので

    祭神は「アメノミナカヌシ」(天之御中主)に改称されました

 

 

 

 

 

 

 

 

          さらに・・・

          ちょっと妄想をしてみる・・・

 

          秩父神社は 「柞乃杜」(ははそのもり)に鎮座していますが

 
 
 

          秩父の 「ハハソノモリ」 は

          

          「母祖の杜」 → 大地の母である女神さまの杜だった

 
 
 

          「柞乃杜」には

 

          初めから

          女神さまがいたのですよ

 

 

 

 

 
 
 
 
 
         秩父神社の社家は 薗田氏が累代勤めているそうですが
         薗田氏は 藤原氏の末裔と思われます