土佐を脱藩した龍馬は

山を越え、

乗り合いの小舟で肱川を下ってきて

 

当時は橋がなかった.。現在は何度目かの改築中。肱川は正面の大洲城に当って右へ。

 

大洲の町で上陸し、食事をしたあと、

ふたたび下って、

長浜で一泊してから瀬戸内海を渡って長州に行った。

 

龍馬が泊った長浜の旅館はまだ残っている。龍馬と同じ部屋で泊まることができる。

 

彼は、武市半平太から

「もし大洲でつかまったときは武田敬孝に連絡しろ」

と言われていたが、大洲領は穏やかだった。

無事通過できた。

 

現在の鉄砲隊。ここは城山の広場。すごい音がする。大洲中に音が響く。鎧の腹の丸印は蛇の目と言って大洲藩の紋。これは冬だが春には桜が咲く。

 

後に、大洲藩は

家老の一人を長崎に派遣して

グラバーから鉄砲を買おうとした。

ところが、

海援隊を仕切っていた

龍馬の口車に乗せられて、いろは丸を買ってしまった。

その家老は

勝手なことをした責任を取って、切腹している。

 

グラバー邸。対岸に龍馬の子分だった岩崎弥太郎が作った三菱の造船所がある。

 

しかし、大洲藩士にとっては良かったかも知れない。

鉄砲が少ないので先頭切って戦えない。

戦死者が2人で済んだ。

 

慶応3年10月5日に、武田敬孝は

山内容堂との会見の帰りに、

土佐の港町の須崎の旅館で、龍馬と会っている。

 

私は、先年、須崎に行ってみた。

(武田敬孝は私の曽々祖父なので足跡を知りたかった。)

古い旅館はあったが、

明治時代のものだった。

 

http://matinami.o.oo7.jp/hatago/nisi-nippon/yanagiya-susaki.html

 

11月12日に、大洲藩は長州に使者を送って、

「蛤御門の変」以来、

京都への往来が許されなかった長州藩の、

部隊1500人を

無事に西宮↓に上陸させることを約束した。

https://enokama.exblog.jp/23078691/

 

約束通りに事態が動き、

大洲藩は

宿泊や食事やわらじにいたるまで世話をした。

(残念なことに敬孝の日記や受け取った手紙は洪水で蔵が浸かってだめになり、

いきさつがくわしくわからない)。

 

11月15日が龍馬が暗殺された日である。

11月29日が、長州軍の上陸した日。

鳥羽伏見の戦いの勝利が1月6日だから、龍馬にとっては残念だった。

 

龍馬が書いた船中八策は、幕府側の後藤象二郎が持っていて

それが明治維新に生かされることになったと言われる。

 

後藤象二郎の写真。敬孝の写真帳からオリンパスのカメラで今撮ったばかり。敬孝の弟は函館の五稜郭を建てた斐三郎。科学者の弟の影響で、写真にも興味があったようだ。

 

<今の運勢>

「屯(ちゅん)」。まだ地面の下で計画を練るとき。機が熟してから大いに発展するがその前の段階。今は貧しくても必ず地上に出ることができる。ただしまだ」地上が寒風で荒れている。状況的にもう少し待て。じっと機会をうかがうとき。