ヘビメタが好きでずっと聴いてるし、ギターも弾けるが知識が増えない。

映画もそう。

なんでだろう。

最近動機という言葉をよく聞くし、自分でも使う場面がよくある。

起業の本から読書術なんてのを覗いてみてもやっぱり動機。

行動の結果何かしらの報酬を得ると直前に行なっていた行動が起こる確率が増えるという。

なぜ好きなものはたくさんあるのに、知識が増えないのか。

それは何かを楽しむ時、僕の報酬は少なくとも知識ではないからではないか。

 

これは人と話していている時にも言える。

僕は相互的なコミュニケーションではなくて自分の言った事で人が笑う、もしくは人に感心される事にすごく喜びを感じる。

一方で相手の話す内容はどこかいつもふわっと耳から入ってきて、すすすとどこかへ消える。

相手が言った事で笑うこともあるが8割は愛想笑いでその他残りは何となく。

要は言葉を理解しておらず、自分が言った事がいかに相手にキャッチされるかと、雰囲気でコミュニケーションをしている。

 

ヘビメタもそう。

なんとなく聴いたり、時にはギターのフレーズに注意して聴いたりはするけど、言葉じゃない。

ギターもそう。

こういう風に指を動かそうとは思うけど、それが何拍子だとかどんなスケールだとかは考えた事がない。

 

でも僕はこれが楽しい。

僕の楽しみ方だけでみんなが楽しんでくれればいいのに。

 

けどそうはいかない。

大抵の人たちはきちんと言葉を使って、少なくとも僕よりは言葉のやり取りを楽しんでいる。

僕もそうなりたいけど他の人たちがもうすでに言葉を深く理解できて、そのおかげで人とうまく話せたり、本を読む事ができるのに、僕はまず言葉を深く捉えるところから始めないといけないなんて。

 

いいなあ。

 

ゲームにはルールがあるもんで、それに乗っ取らないと負けるんだよな。

何かを個人的に楽しむ分には自分の世界で、自分の動機に合わせて楽しめばいいだけなんだけど。

他人との関わりの中で何かを共有するとなると、自分の世界を相手の世界に繋げるための言葉や行動に変換しないといけなくなるんだよな。

多くの人々が好きなものを楽しむ方法が自分の世界がマッチしていればいいけど、そうでない人間は、好きなものが同じであったとしても共有できるものがとても少なくなってしまう。

 

じゃあ楽しみ方を変えるのか、それとも継続か。

でも楽しみ方を変えた時に、その物への動機は今の楽しみ方をした時と同じ水準で維持されないのではないか?

でも好きなもの、動機があるものと知識が条件づけされて好きになることもあるのかな。

 

ああ

ニュータイプになりたい。