せんりつ
を呼ぶものはなくなった。そして、和
なご
やかな微風や、街をめぐる遠くの山脈が、静かに何かを祈りつづけているようだ。バスが橋を渡って、己斐
こい
の国道の方に出ると、静かな日没前のアスファルトの上を、よたよたと虚脱の足どりで歩いて行く、ふわふわに脹
ふく
れ上った黒い幻の群が、ふと眼に見えてくるようだった。
翌朝、彼は瓦斯ビルで行われる「広島の会」に出かけて行った。そこの二階で、広島ペンクラブと日本ペンクラブのテーブルスピーチは三時間あまり続いた。会が終った頃、サインブックが彼の前にも廻されて来た。〈水ヲ下サイ〉と彼は何気なく咄嗟
とっさ
にペンをとって書いた。それから彼は外国人 彼女Mと一緒に中央公民館の方へ、ぶらぶら歩いて行った。Mは以前から広島のことに関心をもっているらしかったが、今度ここで何を感受するのだろうか、と彼はふと想像してみた。よく晴れた麗しい日和
ひより
で、空気のなかには何か細かいものが無数に和
なご
みあっているようだった。中央公民館へ来ると、会場は既に聴衆で一杯だった。彼も今ここで行われる講演会に出て喋
しゃべ
ることにされていた。彼は自分の名や作品が、まだ広島の人々にもよく知られているとは思わなかった。だが、やはり遭難者の一人として、この土地とは切り離せないものがあるのではないか
