第五章 復興せられたる最高評議会及びタルムド(4) | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

世界撹乱の律法
ユダヤの『タルムード』

デ・グラッペ著、久保田栄吉訳編
破邪顯正社発行
昭和十六年(1941)十二月十二月
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此の多言で、乱雑な、矛盾と誤謬に満ちた労作(タルムード)は、パリサイ派に教育されたユダヤの学士等の見解を最も善く説明している。この労作は六篇に分けられている、第一編は播種及び刈入れに就いて述べている、そして所有権及び所得税その他にも言及している、第二編は祭日及び之に関する風習を守る規則を述べている、第三編は婚姻に関する総ての問題を含んでいる、第四編は裁判及び商業の問題、又異端の問題に就いて説いている、第五編及び第六編は本分及び洗浄の問題を解説している。此の書は同時に民事法典、宗教的規定集、譬諭(ひゆ)及び逸話集又ユダヤ民の道徳教訓書である、その如何なる教訓であるかは以下述べてみよう。


この労作の編纂に自分の総教長在職三十年を献げた。そして其の編纂の進むに従ってこれを部分的に各会堂に頒布(はんぷ)したのであったが、パリサイ派の総ての教師等の目的としていた人生の有らゆる偶発的なる場合に対する解決を提供することは出来なかった。それで彼の存命中、又其死後テベリヤのシネドリオンは、彼の労作に対する、多数の解釈者による増補を、其追加として編纂することを企てた。


ミシナ及び其解釈全集(其の中最も重要なるものは四世紀のラーウィンであった教師ヨハナンの編成に係るゲマラである)は、エルサレムのタルムードを成し立ってるものである。此のタルムードの編纂は、テベリヤに総教長及びシネドリオンの存在していた時代を通じて継続された、そして不満を懐いて離反した数千のユダヤ人、即ちカライム派を除く全世界の会堂は此のタルムードを受くると共に何等の反抗もなく一斎に之を承認した。


併しシリヤ王の治世の間総教等の受けつつあった擁護は、キリスト教がコンスタティヌス大帝に由って帝座に登った時以来極めて不安定なるものとなった。実際配信者ユリヤヌスの治世以後、ローマ皇帝は何れも皆総教長の特権を制限するに傾いていた。


紀元四二九年小テオドル帝(テオドシウスの誤りと思はる)は総教長ガマリエル四世を眨黜(へんちゅつ)するに決した、眨黜せられた後ガマリエルは民間に身を潜めてイダヤに於て医学の研究を続けていたやうである。セクスト・エシピリクは之に就いて其の著書三三巻中に彼を称賛している。そして同時に彼は総教長の職を廃止した。この処置はイスラエル民に特別の動揺を惹起しなかった。其の理由は明白である。ガマリエル四世の父ギレル三世は、攻撃の目的を以って、真面目に研究していたキリスト教を、死する前に受けた為に自分の一族に対するユダヤ人の信用を傷つけたのである。



このギレル三世はオリゲヌスを知っていた、そして彼と信書を交換していた。聖エビタヌスが、キリスト教の洗礼を受けて後にテベリヤの主教になった。ユダヤ人ヨセフから聞いたといふ物語によると、ギレル三世が死する前に此のユダヤ人を自分の許に招いて洗礼を受けることを求めたといふことである。〔傍註〕


それで其の子の眨黜(へんちゅつ)は、シネドリオンの為にも皇帝の政府と殆んど同様に望ましい事であった。他の一面に於てキリスト教を捧ずる皇帝の先に発布した勅令と其政権の確立とによって、イスラエル民の政府の首都がローマ帝国の属領にあった場合、この政府の平静なる工作は多くを期待し得らなかった。是等の原因によってシネドリオンは自然其の目を東方に向けるやうになった。何となれば其処にサッサニド王朝の権下にあったペルシャ帝国に移住していたユダヤ人が大に繁栄していたからである、斯うしてシネドリオンは遂にバビロニアに移るに決した。



バビロニアは、バイブル時代には天を征服せんと努力していた地の諸子の陰謀を行った舞台であった(以上既に述べた神化人の崇拝への興味ある序奏曲)、故に常にユダヤ人の憧憬の的となっていた。バビロニアの領地にあった町なる所謂ハルデヤのウルから彼等の祖先アブラハムが出た、バビロニアにはまたユダヤ国の住民が俘虜として移された。


バビロニアの哲学は彼等の信仰を神道に導いた、バビロニアからはまた紀元前三〇年にパリサイ派の第一総教長大ギルレルが出た、終にバビロニアへは小デオドシウス帝の勅令発布後ユダヤの秘密政府が帰った、そして紀元一〇〇五年まで其処に存在していた。なほ次ぎの一事を加へて置かう、即ち俘囚時代以後ユダヤ人の口語は、最早古典的ヘブライ語ではなく、アラメヤ語、即ちシリオ語とハルデヤ語の混淆(こんこう)したる方言であった、そして古典的ヘブライ語は単に学者のみ使用する言語となった。エルサレムのタルムードはアラメヤ語で書かれた。


一九一一年の八月に文藝大学に於てピニオンの述べた調査報告の結論によれば、ユダヤ人は俘囚の後バビロニヤの暦を採用したといふことである、其論拠となっているのはエレファンテイナで発見された古代エジプトの写本である。〔傍註〕


此のユダヤ民の政府がバビロニアに樹立されたのは、或学者等の著書、殊にカトリック修道院長シヤボティの労作『ユダヤ人は我等の教師なり』によれば、西暦紀元二世紀である。それによると聖ユダは二世紀の初に当時バビロニアに君臨していた、『追放民の君主』(バビロニアに於けるユダヤ民族長)及び全ユダヤ民の首長グーナの至上権を承認していた。此問題を塾々研究した結果、又我等が決定的なるものと認める理由に由って、我等は以上の証言を放棄せねばならぬ。


五世紀以前にバビロニアに『追放民の君主』が存在していた事の唯一の論拠は、以上擧示(こじ)した『ゲルマラの結論』中の一句に含まっている。


然るにタルムードのこの部分は殊に時代錯誤や、寓話や、非条理の妄語に満ちている。この句の筆者であった解釈家は、多分其の時代の『追放民の君主』に媚びて、この『君主』なる職の由来が古代に属するものである事を誇張しようと欲したのであらう、この解釈家は、『追放民の君主』以前に存在していたユダヤ国の総教長を黙殺し去ることの不可能なるを知って、総教長を以て『追放民の君主』に隷属していた者と爲したに過ぎない。併しこのグーナなる者の祖先に就いても、その子孫に就いても知られている者は何もない。そして歴史に出されている初代の『追放民の君主』は五世紀、即ち総教長ガマリエル四世の眨黜(へんちゅつ)とテベリヤのシネドリオンの解散の後にいた人である。そして此の人は未完成のままになっていた。タルムードの編纂の継続を企てたバビロニアのシネドリオンと同時に現はれたものである、これは単なるシネドリオンの場所の変更を示すものに過ぎない。そして此の変更と同時に総教長の血統の変更を生じ、これによって、シネドリオンも或は一層能率の向上をはかり得たかも知れない。


惟(おも)ふに、エルサレム宮殿の破壊の時以来ただ同一のユダヤ政府が続いて存在し得たのみで、それが相続いてヤッフワ、テビリヤ、バビロンと所在地を変更したのである。そして我等の考ふる所によれば、此の政府は後世コンスタンチノーボルに移され、其の後更にサロニキに其の所在地を変へたのである。(われ等は『ゼフェル・オラム・ズータ』)には何等の価値をも認めない。これは極めて曖昧なる書で、エルサレムがネブカデネザル王に占領された時から五世紀の中葉までの「追放民の君主」の族譜を載せている。著者は我等の上述の見解を裏書きするに足るべき荒唐無稽の言説を多く述べている。


例へば彼は「マッセヘット・アボド」の創述者なる教師ナタンをグーナの父であると言って居る。併し此の教師ナタンは有名な人物で、彼は三世紀の初めの総教長聖ユダの時代にテベリヤのシネドリオンの議長であった。総て此の調子である。〔傍註〕


(4)了