第二章 バビロン幽囚とパリサイ派(5) | akazukinのブログ

akazukinのブログ

「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

世界撹乱の律法
ユダヤの『タルムード』

デ・グラッペ著、久保田栄吉訳編
破邪顯正社発行
昭和十六年(1941)十二月十二月
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


第二章 バビロン幽囚とパリサイ派


(5)


救世主降誕の直前に於て此の進化作用は一般的となった。そして其の献祭の如きは祖先から継承したる信仰に全く離反したものであることを意識するものもなかった。


併しユダヤ国に於ける人心が、悉くパリサイ派の巧妙なる戦術に服従されたのではなかった。ユダヤ人中の頗(すこぶ)る多数者、特に比較的教育ある者、或は神の叡智に導かれていた人々は、パリサイ派がイスラエルを異端に誘導していたものであることを悟って、これに反抗しようと努めていた。その競争者等を支持していた政治的勢力からの妨害のために、これ等正統的信仰を固く守っていたユダヤ人は、正面から彼等と闘争することを避くる外なく、殆んど皆その祖国を棄つることを余儀なくされた。


死海の沿岸、荒涼たる広野に彼等は修道院を建設した。ここで彼等はキリスト降臨の時に至るまで真正の信仰の約束を守っていた。ここに約四千年のユダヤ人がモーゼの神に奉仕し、預言の応ずる時を俟(ま)ちつつ修道規則に従って住んでいた。此の規則の明細はヨセフ・フラウィー及びプリニーによって我等に伝へられている。かれ等の高潔なる徳行生活は一般の尊敬の的となっていた。エッセイと称せられた一派の人々は、イスラエル人をして其の使命に背かしめようと努めていた人々のために少しも心を動かされなかった。かれ等はモーゼの律法のすべての規定を履行していたが、しかし献祭のためエルサレムに参拝することは差控えていた。それは彼等がエルサレムの聖域に於ける献祭を是認しなかったためではなく聖殿は彼等が深く尊崇していたところであったが、しかし此の献祭が異端者なるパリサイ派の者によって執行せられたので、そこで行くことを欲しなかったのである。



エッセイ派は、エルサレムの聖殿に行はれた礼拝式を尊崇してはいたが、しかし自身は参列しなかった。何となれば彼等の信念によれば、献祭執行者の多くは退化したイスラエル人から成っていたからである。(ネアンデル著教会史)


エッセイ派の教導職は、極めて門戸閉鎖的であったが、しかし其の影響するところは、修道院の四壁内に限られなかった。エルサレム其他のユダヤ国の各都市に於ける俗人の間に、かれ等の教派に帰依していた者が数多かった。これは死海の沿岸に苦行を務めていた修道士等の誠実なる信徒であって、その精神的指導に従っていた。著大なる各中心地では、これ等信徒中の一人に、真の神を信ずるすべての人々を団結せしめる義務が負はされていた。この真の神の教道は旧約聖書によって其の霊感的内容を与へられ、すでに遠き以前から新約聖書の根本義と完全に一致していたのである。



ヨセフ・フラウィー『ユダヤ人の戦争』二の一の認める所によると、エッセイは総てのユダヤ人の宗派中最も完全なるものであった。かれは死海沿岸修道士―ユダヤ人の戦争―に就いて次の如ウに記している。彼等は、互に緊密なる友愛の関係を保ちつつ生活している。そして総ての快楽を以って如何なる者も避くべき罪悪とし、節制及び情慾との奮闘を以って最も尊敬すべき善行、美徳と看做している。かれ等は結婚を排斥している。それは人類を絶滅すべきものと信じているためではなく、婦人の不節制を避けねばならぬからである。しかしながら彼等は学習のため又善行の規則に於ける修養のために委託せられる児童を引き受けることは拒絶しないのみならず、彼等の肉親者のやうに懇切に教育する。そして総ての児童に一様の被服を与へている。


彼等は富を卑んでいる。かれ等の所有はすべて共同で、驚くべき程平等にしている。かれ等の団体に収容せられる各人は、富による虚栄を避くるため、また他人を貧困の恥辱から救ふがために、そして兄弟として幸福なる一致団体の中に生活するがために一切の財産と別れる。


彼等は、若し其の被服が十分に白ければ、それで自ら衣服に足れる者、清浄なる者と認めている。

彼等は最も宗教心が強く、日の出前には信仰問題以外のことは一切口外しない。


そして其の時は、神にその光を以って地を照らさんことを願ふために、彼等が代々継承した祈祷を行ふ。その後各人はそれぞれ指定された業務に就く。十一時に彼等は一ヶ所に集会する、そして白衣を着て冷水を浴びる其の後各自の独房に別れて行く。房中には宗派以外の者の出入りを禁じている。斯くの如くして清められた後、かれ等は食堂に行く、それは恰も聖堂に往くが如く、そこに入った後は全然沈黙して坐す。各人の前に小さい皿の上にパンと食物が置いてある。先づ祭司が肉を祝福する、そして祭司の祈祷が終るまでは誰も食物に手を触れない。食事の終った後は、只だ神の恩恵によってのみ、食物を得るものであることを皆感ずる。すると祭司がまたそのための祈祷を誦読する。その後、彼等は、神聖なものとされている衣服を脱いで、それぞれの職場に帰って行く。晩の食事の時も、かれ等は同様に行っている。


そして若し訪問客があればこれを歓待する。


彼等の家では、誰も騒がしい音も聞かない。そこに少しの混雑もない。各人は只だ自分の順番を待って物を言ふ。そして彼等の寡言は外国人をして自然敬意を起さしめる。こんな節度は不断の節制から生ずる結果である。彼等が飲食するのは、只だ自ら養ふ必要のみに限られている。


窮民を救済することの外は、何事によらずいっさい長者の許可なくしては独断行為を許されない。それも同情以外の他の如何なる動機にも因らないことを条件とせねばならぬ。若しこの貧しい者が親類であるならば、許可なくしては何物をも与へることは出来ないのである。


彼等は特に憤怒を抑へることを務めている。彼等は平和を好み、約束したことは必ず実行する。それで他の人々の誓約よりも、彼等の単なる言葉が寧ろ信用し得られる。彼等は宣誓を神に対する冒涜と見做(みな)している。何となれば若し信用を得るがために神を証者として呼ばねばならぬならば、既にその人が虚言者でないと他人を納得せしめることは出来ないからである。


彼等は、其の仲間入りを希望する者でも、直ぐにはその団体に加盟させないで、先づ一年間修道院の牆外に居住させ、そこでかれ等同様の生活状態を体験せしめる。


この人々は鋤と、襯衣(シャツ)と白衣を受ける。この人々は同様の食物を用ひ、身を清めるために冷水浴を行ふことを許される。しかし尚ほ二ヶ年を経過せねば、一般の食堂で食事することは許されない。その二ヶ年の間は、彼等の思想の強固さと堅忍不抜さの試験が行はれる。その後始めて彼等に適当な者と認められて全く収容される。


しかし、一般の食堂に入られるに先つて、神を敬ひ、心をつくしてこれに事へること、人的関係は公平を守る事、誰に対しても、又たとひ命ぜられても意識的に悪事を行はざる事、有司特に王に対しては、神より権能を受けたるものとして誠忠を守ることに就いて誓はねばならぬ。これに尚ほ附加して、他は彼等が権力を獲得した時、民を虐ぐるがためにこれを濫用しない事、又其の時、衣服その他必要とする総ての物も、かれ等は其の権下の民よりも多くの物を所有しないといふことを誓はねばならなかった。


以上が即ち彼等の同一の生活状態を取ることを望む者に課する契約である。それは斯くして彼等を罪悪から防衛するためである。満一かれ等が重大な過失を行った時は、修道院から放逐されたことになっている。

彼等は到って、長命で百歳の高齢に達する者も少なくない。それは彼等の質素な生活と、彼等が万時に節度を守っていることに起因するものと思ふ。彼等は地上の不孝を軽じている。自分の忍耐を以って、艱難(かんなん)を克服し、若し重大な原因があったら生命よりも死を重んじる。


このエッセイ派は善に向って進み、悪を避くるがために、霊魂が不死のものにつくられると信じている。善人は死後幸福なるものとなるといふ希望に因って、現世の生活をヨリ善きものにしなければならぬと考へている。そして現世で悪事をなせば、このため未来永劫に苦悩を以って罰しられるであらうと信じている。


この最後の点はエッセイ派の教義を、同時にモーゼの律法及びキリスト教に連絡せしめるものである。サドカイ派が霊魂不滅を信じていなかったことは既にわれ等の知るところである。パリサイ派は、現代の心霊論者及び神智学者と同じく輪廻説を信じている。


ヨセフ・フラウィーは、此の修道士等と並んで、ユダヤ国の諸都市に住んで彼等の教道を信奉し、かれ等の権力に服していた信徒の存在していた事をも記している。この信徒は修道士と同様に、修道規則に服していたが、只だ結婚だけは行っていた。しかし、かれ等は結婚を只だ人類を継続する方法と認めたのみで、これを快楽とは考へていなかった。


尚ほ、ヨセフ・フラウィーの云ふには『彼等が旅行する時は、盗賊に対して自衛するための武器の外には何物をも携へない。彼等が往く所の町には、同宗派に属する誰かがいる。其の人々は同宗派の来客を接待し、宿所を提供し、衣服その他の必要品を寄附する。かれ等は互に何物をも売買せず、只だ其の所有している物を互に交換するのみである』と。


以上が我等の主イエス・キリストの生まれた時代に於けるユダヤ国民の宗教的情操であった。


(第二章 バビロン幽囚とパリサイ派 了)