第二章 バビロン幽囚とパリサイ派(3) | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

世界撹乱の律法
ユダヤの『タルムード』

デ・グラッペ著、久保田栄吉訳編
破邪顯正社発行
昭和十六年(1941)十二月十二月

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(3)


最初、ハルデヤの哲学、後にペルシャの哲学が、何れもレビ等から借用されたものであると云ふことに就いての説明は、本書の主題に入っていない。だが只だ次の消息を玆(ここ)に附言するに止めて置かう。伝説によれば、ユダヤの預言者ダニエル或はエズラは、ゾロアストルの教師であった。此のアジヤの哲学者の教説中に見る或る高遠なる論旨は疑いなくユダヤ教の一神論に其の淵源を汲んだもので、此の教師との関係に於て其の理論の出発点を見出さねばならぬ。


その反対に、ハルデヤの思想は、正統的ユダヤ教に力強く影響して、イスラエルを変形せしめ、神と格闘する者との其の本来の言語の意味をその名に立ち戻らしむべき分派の起る基礎となった。此の分派は即ち『パリサイ派』であった。「パリサイ派」とはヘブライ語で「特別の者」と云ふ意味である。此の名称自体が既に異端及び分派を思はしめるものである。



この意義は、多分パリサイ派自ら自分の分派の名称に附したものであったろう。しかしイスラエル民に対しては、彼等は此の名称に別の説明を加へていた。即ち彼等は他のユダヤ人から「特に別けられた」者である。其の敬神の念厚きために特別な地位に立てられたものであるといっていた。ハルデヤの哲学が、パリサイ派の哲学を生んだのと同時に、此の哲学は又その教義をピタゴラスに伝へた。ピタゴラスはユダヤ人のバビロン大俘囚の初め頃、バビロンで十二年間修学していたといふことをヤンブリクが証明している。〔傍註〕


バイブルの諸書にも、ユダヤの歴史家の書中にも、俘囚以前にはパリサイ派のことは記されていない。しかしミュンクの著書が世に公にされた後は、バビロンの俘囚の時に、ハルデヤの哲学が或るユダヤの学者、就中その大部分なるレビ等に影響を与へた結果として此の分派が起ったと云ふことがもはや何人も争ふことのできない定説となった。


勿論このことに関するミュンクの結論は、十分根拠あるものではあるが、しかしわれ等の見る所を以ってすれば、このユダヤの学者等が、そのハルデヤ教師等の学説から受け容れたる知識の重要さを十分に評価していない。彼等は実際啻(ただ)に万物の本体とその再生及び其の初源の性質に関する迷信の一部のみならず、汎神論的教説の根源をも受け容れたのである。尤もかれ等は此のすべての知識を皆ユダヤ的様式に改造し、これを選民の誇りと調和せしむるに努力した。


此のハルデヤ思想のユダヤ思想への寄与からパリサイ派の伝説である「カバラ」即ち神秘教が起ったのである。これが久しき間、教師から門弟へと口述によって伝へられ、爾来(じらい)八百年を経てタルムードの著述に霊感を与へ、遂にその完全なる表現を「ゼフェル・ハ・ゾガル」に見出したのである。



「ゼフェル・ハ・ゾガル」とは豪華の書と云ふ意味である。この神秘教的著書は、ユダヤ人の間に最も重きをなしている。そして遺憾ながらキリスト教から転向して神秘教徒も同じくこれを重要視している。この書の仮想的著者は、西暦紀元五〇年にガラリヤで生れた祭司シメオン・ベンウォハイであったとされている。

しかし其の如き祭司がこの時代に実際存在しなかった。そして「ゾガル」と称せらるる書は十世紀の頃に書かれたものであると断定するに十分の根拠がある。著者として種々の人名を挙げることや、様々な著書の贋造は、ユダヤ秘密教の著者に関する問題に於ては普通の現象である。〔傍註〕


パリサイ派の伝説は、ユダヤ人の待望の表現として傲然唱道せらるよりも、先づ第一に重大なる難関を突破せねばならなかった。此の難関の主なるものは、俘囚によってユダヤ民の間に惹起された正統的信仰の復興によって生じた。エルサレム聖殿の破壊をかこち、エホバの神に自分たちの祖国の艱難(かんなん)を止めんことを念願しつつあった追放の民に向って、エホバの神は空虚な夢想に過ぎざるものであるなどと宣伝することは、何等の効果をも望まれぬばかりでなく、好んで大なる危険に身を曝らすこととなり、少なくともイスラエル民が永久に自分等の勢力を失墜することになるのであった。


そこでパルサイ派の人々は、同胞の信用を得るためには、宗教運動の先頭に立ち、律法の微細なる規定をも偽善的に遂行し、煩瑣(はんさ)複雑なる儀式を制定することを以って賢明なる態度であると考へた。それと同時に、かれ等は秘密集会を催ほし、秘密結社を組織して自分等の説教を展開した。此の結社員は俘囚当時は僅か数名に過ぎなかったが、ユダヤの歴史家であるヨセフ・フラウィーの時代には此の結社が最も隆盛を極めて六千名に達した。


この汎神論者なる学者等の集会は、忽ちにして、ユダヤ民の上に指導的勢力を有するものとなった。紀元前五三八年にペルシャ人がバビロンを占領した時、ユダヤ人は俘囚から解放されたる一大期待をかけたところ、其の後二年を経た五三六年に至り、ペルシャのクロス王は勅令を以って、故郷へ帰ることを希望するユダヤ人にこれを許した。この時この俘囚は、終りを告げたのである。そして第一回の五千人からなるユダヤ人はゼルバベル引率の下に出発し、続いてエズラ及びネエミヤに率ひられて多くのユダヤ人が帰って行った。



ユダヤ国の住民全部が俘虜となって移住せしめられ、そして後に再びその悉くが帰還したもののやうに想像されているが、それはいずれも誤りである。ネブカドネザル王は、ただ一部の住民をバビロンに連れ去ったが、他の住民はエジプトへ逃げて、此所で特別の団体を組織していたのである。


またクロス王がユダヤ人に故郷へ帰ることの許可を与へた時、「神にその心を感動せられし者等」のみ帰還したので、大部分はハルデヤに依然として留まった。しかし残留した者等も決してユダヤ先天の国民性を失はなかったために、ペルシャの宰相モルデカイをも出したのである。「エステル書三章八節」にある如く「国の各州にある諸民の中に散らされて別れ別れになり居る」ユダヤ人である。だからソロモン王の時代に始まったユダヤの散居は、紀元前五〇〇年の頃にも、既に多数に上っていたのである。〔傍註〕


(3)了