ミトラ教から現代神智学へ(2) | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

法輪功が現れたおかげで中国を別の面から見ることができた。


法輪功の教義とされる『轉法輪』は、かねてから神秘学のようだと思っていた。
神智学の教義が古代より影響を与えていたというのなら、似たような話が出てきてもおかしくはない。


ミトラ神学―古代ミトラ教から現代神智学へ―
東條真人著
国書刊行会(1996年)


ミトラは、古代イランの正義と公正の神として誕生し、西のローマ帝国でついに宇宙霊と言う地位を確立した存在です。(中略)ミトラは神の意志をもっともよく知る者であり、あらゆる場所に自らの姿を投影して人間や天使たちを導く教師にして救世主なのです。この偉大な存在は、キリスト教やイスラームにも伝えられ、聖霊あるいはアル―マフディーと呼ばれて、それぞれの神智学の中で今も重要な位置を占めています。

一方、東では、仏教に定光仏、大日如来、弥勒菩薩という三つの形でとりいれられました。ここでは神の意志を最もよく知る者という西洋的な表現は、真理(ダルマ)をもっともよく知る者という表現に変わっています。

(『ミトラ神学』プロローグ、16頁)


すべての宗教は、ミトラ教から生まれ別れて行ったことらしい。
各宗教で言っている神は、ここで言うと自らの姿を投影する『偉大な存在』になるという。


どこかで聞いた言葉である。
そうか、オバマか。


「ミトラ神学」は、宗教の教義を神智学を起点にしている。


現在のイラクに相当する地域をバビロニアといいます。ここを中心にイラン西部には、ミトラ崇拝という信仰がありました。後にバビロニアの神官団(カルデア人)は、自分たちの神聖科学(占星術を中心とした秘教的教義)と予言者ザラシュトラの教義とを融合して、ミトラ教という宗教に発展させました。これは後にバビロニア=ストア学派の手でローマ帝国に伝えられます。ローマ帝国に紹介された当初、ミトラはペルセウスと呼ばれ、真の名ミトラは秘密とされました。ペルセウスとは「ペルシアから来た神」という意味です。 


ミトラ教は、古代から中世にかけて西アジアで最大の勢力を誇った大宗教です。時代によって、勢力範囲にちがいはありますが、現在イラクとイランを中心に北アフリカ、西アジア、中央アジア(旧ソ連南部)、中国ウィグル自治区、甘粛省、北京近郊、福建省に勢力を持っていました。


バビロニア、メディア王国(728-550B.C.)、パスティア王国(247B.C.-226A.C.)、古代ローマ帝国(27B.C.-395A.C.)、アケメネス朝ペルシア帝国(550-330B.C.)、ササン朝ペルシア帝国(226-651)、ウイグル-トルコ王国(中央アジア、744-840)では国教でした。中国では「明(1368-1644)という王朝名の由来となりました。


ミトラ教はローマ帝国や中央アジアのフリーメイソンです。現在のフリーメイソンとほぼ同様の組織構造をもっていました。これはローマ帝国の組織と似ていたのではないかと考えられます。(『ミトラ神学』、59頁)


ここで言っていることを真に受けるとしたら、
教義のみと思っていた神智学は、ここでは宗教だといっている。


すべてのありとあらゆる宗教に浸透しているといってよい。
一神教のなかにミトラ教が含まれているといってもいい。


世界教師弥勒菩薩は、朝鮮半島にも現れました。朝鮮半島では、弥勒の教えをもとに花郎党(ファランド)が結成され、新羅が六七六年に朝鮮半島を統一しました。(『ミトラ神学』、326頁)


新羅はローマと交易があったのでこのようなミトラ教の輸入は考えられる。


花郎 かろう/ファラン 国仙。新羅の、愛国的な貴族子弟の精神的・肉体的修養団体である花郎徒の指導者。新羅滅亡までに二百人ほどが数えられる。貴人の子弟で美貌なものを選んで、白粉をつけて化粧し、美しく装わせる。これを花郎といい、国人はみなこれを尊び仕えている。農村の青少年集団組織で、村落の防衛・祭祀・生産・教育など各方面に活動した。新羅の国家形成期に、この農村組織を国家的に拡充したのが花郎制度。ただし、各花郎集団の独自性が強固で、貴族連合体制下ではその成果が発揮できたが、王権が確立するとその組織は凋落した。花郎の理念は原始社会の信仰形態を基本に、儒・仏・道の三教を包摂したもの。新羅にかぎらず、朝鮮の思想には、外来思想との積極的に習合する傾向がある(井上訳注)。
(引用元:新羅人の武士的精神について 池内宏 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/pages/125.html


日本では、最澄、空海、の二人が八〇四年唐に渡り、弥勒=ミトラの教えを学び、日本に帰ってから、その教えを根付かせました。(『ミトラ神学』、326頁)


密教にもミトラ教の影響があると言う。だかとらいってここで書かれているように日本での出来事を「東アジアの果てに大きな光が輝いた瞬間でした」(同上)と歯の浮くような台詞を言えるものだろうか。


唐の時代はイルミナティ13血流の李家の統治時代である。


平安時代の唐から影響は、弥勒信仰や建築、仏像、密教の伝播と現代の日本で多く残されている。


663年(天智2)、白村江の戦いで、百済側に付いた大和は唐-新羅の連合軍に大敗をきした。この敗戦がなければ天平時代仏教芸術の唐文化が大量に流入しなかったといわれている。


俗にいう友好的な交易ではなく敗戦国大和に唐人が大量に侵入し唐人によって移植建築されたという。


平城京から平安京へと連鎖反応をつづけ、菅原道真の遣唐使廃止にいたって、ようやく終末を告げたのだった。その間およそ二百三十年になる。一国敗戦の余殃がいかに長期にわたるものか、もって知るべきである。

(『白村江』鈴木治著、学生社、1999年新装版、20頁)


神智学にはカバラが混ざり込んでいる。
世紀末を唱え、さらに、救世主が必ず存在する。


そしてこれは、現代、一神教に替わるニューエイジ運動やUFO待望論、アセンション待望論につながっている。
既存の一神教もニューエイジ運動も出所が同じなので、何も変わらない。


ルドルフ・シュタイナーが、腐敗したフリーメーソンを弾劾して決別し人智学運動を起こしたのは、この救世主を否定したからに他ならない。


さて、法輪功である。


中国では仏教は根づかなかったといってもそれに代わる教義が入り込んでいた。

それは神智学といって宗教と言えるものであるが、宗教と言わなくても別にかまわない。


道教と言ったり、儒教と言ったりもできる。

後漢、東晋、宋、隋、唐の時代、神智学の教義は入り込んでいた。


それ以前に、中国の、黄河文明(前7000年~)、揚子江文明(前7000年~)をたどるなら、


黄河中流域の仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)文化(前3000年頃)の先住民は苗族であった。
黄河中流域の中原で、その大首長が中国初の王となった。苗族は、三皇の伝説を持っている。
この三皇、伏羲、女媧、神農。さらにシュメールと同じ洪水伝説、人間製造伝説を持っている。


法輪功が中国の伝統と言ったときそれは間違ってはいない。


李洪志が、無宗教をとなえている中国共産党教に従えと苦しめられている一般国民を救う目的を持っているのならば、これは、素晴らしい教義になる。


苦しんでいる中国国民を代表して法輪功の修練者たちが、自国の不当行為を暴露している勇気を称える。
イルミナティの青写真である中国共産党政権は擁護するすべがない。


法輪功の教義を受けたとき、今まで知らなかった知識を与えられたときの驚きを素直に感動のあまり語っている人の姿を見た。確かにそうだろう。
宇宙の真理は、それほど感動させるだろう。


李洪志は、中国古典をモチーフとした舞踊や音楽を現代にも通じる芸術性高いものにつくりあげた。


今まで知らなかった人々に知識を与えこんなにも早く修練者を増やすことに貢献した。


腐敗した世の中に警告を発し、道徳を呼び戻すために語り、一般民衆に非公開だった修行の一部、気の流れを無償で教えた。


現代は、時代の変わり目に近づいているので、早く気付かせるために貢献している。


教義では、救世主を否定しているのに、
李洪志が「白馬の騎士」を模したり、「弥勒」を名乗ったりしなければ、


シュタイナーがヨーロッパを救う方法を考えたように、
李洪志も中国国民を救うために立ち上がったと思うだろう。


(2009年11月14日)