礼拝宣教 マルコ12章13-17節 レントⅢ2026/3/8
本日はマルコ12章から、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と題して、御言葉に聴いていきます。
実はこの出来事の前、主イエスは人々の歓声の中、遂にエルサレムに入場なさり、神殿で行われていた不正と搾取を見抜いて、「祈りの家を強盗の巣にしている」と、宮清めをされます。民衆はみな主イエスに注目していました。神殿を掌握していた祭司長、律法学者、長老といったユダヤの指導者たちにとって、主イエスの権威あるお言葉と力ある業は、自分たちの地位や立場を揺るがしかねない脅威になっていました。
そこで、彼らは主イエスをユダヤの最高会議に訴えるために、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と、主イエスに詰め寄ります。主イエス御自身はもちろん神の権威によって行動していました。しかし、主イエスが「神の権威でしている」と、そう言えば彼らは、「神を冒涜した」と訴えるでしょう。主イエスは即答を控え、代わりに「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネのバプテスマは天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」と問い返されました。
これに対して、彼らがもし「天からのものだ」と言えば、彼らはそう言いながらユダヤ人のヨハネを見殺しにしたわけですから、彼らの言っていることとその態度が相矛盾していたことを認めたことになります。逆に「人からのものだ」と言えば、ユダヤの民衆はバプテスマのヨハネが神からの預言者だと思っていたので黙っていません、彼ら自身が民衆の反感を買うことになります。
この主イエスの問答に対してユダヤの指導者たちは、「わからない」と答える他ありませんでした。主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と、彼らに言って、彼らの策略を論破なさるのです。
本日の箇所は、そうした神殿における主イエスとの問答の第2幕と言えます。
「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人々を数人イエスのところに遣わした」。この「人々」というのは、先に主イエスとの問答をしたユダヤの最高議会(サンへドリン)を構成する祭司長、律法学者、長老たちや議員といった地位や権力を有する指導者たちです。先に主イエスを訴える策略に失敗した彼らは、今度はユダヤのファリサイ派とヘロデ派の人たちまでも送り込んでくるのです。
今回の問答は、ユダヤを実効支配していた「ローマ皇帝、カイザルへの税金」についてでした。
彼らは主イエスに、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないでしょうか」と問います。
ファリサイ派とヘロデ派は、実は皇帝・カイザルへの税金ついての態度が全く異なっていました。
ファリサイ派は、ユダヤ民族主義に立ち、ローマ皇帝、カイザルへの税金に対して否定的で、納めるものではないという立場でした。ここでもし主イエスが、「カイザルに税金を納めなさい」と答えたなら、ローマの実行支配下にあえぎ、苦しむユダヤ民衆の反感や非難に遭うことになります。又、ユダヤの教えや律法にそぐわない、神に対する背信行為と、非難されることになります。そしてユダヤの会議に訴える口実が成立するのです。
一方のヘロデ派は、ローマ帝国の権威に頼って、その名のとおりヘロデ王朝を維持しようとしていました。このため、皇帝カイザルへの税金は肯定的で、納めるべきだという立場をとっていました。もしここで主イエスが、「皇帝カイザルに税金を納めなくてよい」と答えたら、ローマ帝国に対する反逆罪として告発する口実が成立するのです。
この皇帝への税金の態度が全く違う両派ではありましたが、両派とも主イエスが目障りで捕らえられることに賛同していたため、何とか結託して主イエスを陥れようとしたのです。まあ神を畏れぬ何とおぞましい魂胆でしょうか。
彼らは主イエスをユダヤの会議に訴えることができるか、あるいは反逆罪で皇帝に告訴できるか、その回答を待っていました。しかし、彼らの欺瞞を見抜いておられた主イエスは、彼らに「ローマのデナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と言われます。
まあ、そこはユダヤの神殿でしたので、ユダヤの貨幣ドラクメ銀貨しかなかったため、おそらくヘロデ派の人が持っていたローマのデナリオン銀貨を主イエスに渡したのでしょう。
主イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われます。彼らは「皇帝・カイザルのものです」と答えます。この銀貨には、ローマ皇帝カイザルの肖像とともに、「神であり祭司」という文字が刻まれていました。敬虔なユダヤ人にとってその銀貨は、「いかなる像をも造ってはならない」という十戒の第二戒に反するもの、神を冒涜するものでした。神は天地創造の神、自分たちの救いの神の他ありません。それでユダヤ人の多くは、その銀貨は皇帝への納税以外は使用せず、日常生活ではユダヤのドラクメ銀貨を主に使用していたようです。
すると主イエスは彼らに言います。
「カイザル(皇帝)のものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
この主イエスのお答えは実に簡潔で明快なものでした。
「カイザルのものはカイザルに返しなさい」。これは一体どういう意味でしょうか。
彼らの質問は、税金をカイザルに「納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」でした。しかしここで主イエスは、「納めるべき」「納めてはならない」という断片的な答えをなさいませんでした。主イエスは、「カイザルのものと神のもの」との区別をされます。そのうえで、「カイザルのものはカイザルに返すように」と言われました。
それは私たちの日常の生活においてもあてはまることです。日々様々な問いが内に外に起こってきます。その時、「行うべきか」「やめるべきか」で判断する前に、「神のものか、否か」「御心か、否か」を主に問い、自らに問う。そこに私たちの平安の拠り所があるでしょう。私たちの日常生活には様々なルールや規則、法律や取り決めがあります。それは権利や保障ともなり、義務や規則ともなります。それを守り、行う責任がありますが。それととともに権利や保障にもなります。
けれども主イエスの答えはそれで完結していません。「カイザルのものはカイザルに」と言われた主イエスはさらに、「神のものは神に返しなさい」と言われました。これは、結局あなたがこの銀貨をどのようなものとして捉えているのかにかかっているのだ、ということがわかります。
カイザルの肖像と銘とそこに「神であり祭司」と刻まれていた銀貨。それはローマ皇帝の神格化と権威を表していました。ユダヤの指導者たちも様々な権力と宗教家の癒着が腐敗を招いていたのです。預言者たるバプテスマのヨハネを殺害し、真理を語る主イエスまで消し去ろうとしていたのです。神を神とし、神の御心、その信仰、信条を自らの尊厳として生きようとする人たちが迫害や弾圧に遭って来た歴史は、今なお続いています。
「神のものは神に返しなさい」と主イエスは言われます。
この神のもとは、神の似姿、イマゴ・ディ。創世記1章「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(27節)にあるように、それは、私たち人間のひとり一人のうちには神のお姿が反映されている、もっといえば神のお姿が刻まれているのです。それは私たちの良心、信仰、信条、尊厳です。それはいかなるものをも奪うことができない神のものです。
主イエスを陥れ、神の権威を奪おうとした者たち。その下心に気づき「神のものは神に返しなさい」と神の御心をお語りになった主イエス。この主イエスによって私たちもまた、神のものとされているのです。
最後に、使徒パウロは神の伝道者として働くなかで多くの苦難や迫害を経験しました。そういう中で彼はロ-マ信徒への手紙8章35節以降で次のように書き残しました。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られているのです」と書いているとおりです。しかし、これらのすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かし勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
私たちそれぞれにも様々な課題や難題があるかと思います。心の中にある葛藤、問答が生じること、もあるでしょう。
主イエスは今日わたしたちに語りかけておられます。「カイザルのものはカイザルに」「神のものを神に返しなさい」。主イエスの権威ある御言葉にまっすぐに聞き従ってまいりましょう。主イエス・キリストによって示された神の愛によって神のものとされた喜びをもって、今週もこの礼拝から歩み出してまいりましょう。
