礼拝宣教「神の言・イエスのまなざし」マルコ3・1~6 2026/1/18

 

お帰りなさい。一月行く、二月逃げる、三月去るといわれていますように時の流れを早く感じるのは私だけではないでしょう。詩編90編には「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」とございます。主によって新しくされていく日々を有意義に生きることができますようにと願います。

 

本日は、先ほど読まれた2つの安息日を巡る箇所から、「神の言・主イエスのまなざし」と題し、御言葉に聞いていきます。ユダヤ教徒にとっての安息日とキリスト者にとっての主の日の礼拝の意味合いは異なるでしょう。その時、神の前に礼拝に集い、礼拝を捧げるという点では同様であるでしょう。

私はクリスチャンになったばかりの頃、当時の教会で主日礼拝厳守ということがよく言われ、そういう中で育って来た一人でした。日曜日のこの時間を、神さまの前に出る日として日常から取り分けて、聖別し、礼拝を捧げる。それは信仰を保ち続けていくうえで大切なことです。けれども、仕事や様々な事情で教会まで足を運ぶことができない方もおられます。主は「安息日の主」であり、日々ともにおられることを念頭におきながら今日の御言葉に聞いていきましょう。

 

まず本日のはじめのエピソードですが。旅を続ける主イエスと弟子たちはいつも食事ができるわけではありませんでした。その日は安息日でした。弟子たちはあまりに空腹であったため、畑の麦の穂を手で摘んで食べたのです。すると、そのことに対して律法を厳格に守るファサイ派の人たちが、「律法では安息日に労働することを禁じているのに手で穂を摘んで食べた。それは労働じゃないか」と主イエスに訴えるのです。神の教えを説いていながら律法の規定を破るなんて「何事か」と言うわけです。  

それに対して主イエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われます。

その昔ダビデ王と従者たちが追っ手を逃れ、祭司アビレメクのもとを訪れた時のこと。空腹であった彼らに「神のために聖別されたパン」が与えられ、力づけられました。そのパンが彼らを生かしたのです。

ですから、安息日も本来人を生かすために制定されていたものだ、と主イエスは言われるのです。

 

主イエスはユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤの律法を学び、神を畏れ敬い、御心を求め、行うご生涯を歩まれました。

律法の本質をご存じであられた主イエスは、律法は元来人を縛りつけるためにあるのではなく、人が人として生きるためのもの。人とその社会全体が神の御心に適う祝福を得るためのものであることをファリサイ派の彼らに思い起こして欲しいと、願われたのではないでしょうか。

出エジプト記20章には、安息日に関する様々な規定が記されていますが。その8~11節には、「安息日を心に留めこれを聖別せよ」「6日の間、働いて、7日目は主の安息日だから如何なる仕事もしてはならない。息子も娘も奴隷も、家畜も寄留者も安息日とする。なぜなら主なる神さまご自身6日の間天地創造の業をなされ、7日目に休まれた。主がそうして安息日を祝し聖別なさったからだ」と記されています。

天地創造の神ご自身が6日間の労働を「よし」とし、安息して祝われた日。それが安息日の原型なのです。また、23章12節には「安息日に奴隷や寄留者や家畜を休ませて、元気を回復させ、過酷な労働から保護する規定」。さらに31章13節以降には「過酷な労働から弱者や奴隷を保護せず、安息日を侵害する者に対する厳格な裁き」が記されています。

安息日、それは人間が神の御業と祝福にともに与るために特別に聖別された日であり、同様にすべての人、家畜までも過酷な労働や苦役から守られ、心身ともにリフレッシュできる休息の日であったのです。

 

けれども、ユダヤ教徒の中でも熱心であったファリサイ派の人の中には、その規定の「精神」よりも規定を厳守することが目的となっている人たちが多くいたのです。

何でもそうですが、それができる人たちはできない人の心がなかなかわからないものです。それがいつの間にか人を責める高慢になっていくと怖いものですね。人を裁き、見下し、それが高じると分断や排除につながっていくのです。それは他人事ではなく、人を裁くような思いが生じた時、自分の心の中にそのような上から目線がないかどうか自己吟味し、思いやる寛容さ身に着けていくことは神さまの望まれるとことでしょう。

主イエスご自身は社会的に弱く貧しい家庭に育ったその一人であらえ、休みたくても休めない人、休まねばとわかっていてもそれが困難な人の心をご存じでした。多くの人にもてはやされても人を分け隔てすることなく、罪人と決めつけられ人たちとも福音を分かち合い交流を喜ばれ、食事をともにされたのです。しかし、そのことが宗教家や律法学者たちから猛烈な反感と恨みを買うこととなるのです。

安息日の精神は、すべての人が日々の労苦から身心ともに解放される喜びの日です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)と主イエスはおっしゃいました。

日曜日に教会に集い安息できる日も感謝なら、たとえ集えなくとも安息日の主であるお方が共におられるその一日一日も感謝であります。まあ、やはり信仰の友と一緒に集い、主を礼拝することは救いの確認、魂の喜びとなりますので、オンラインズームでも参加できますので、可能な限り共に礼拝ができるようにと願っております。

 

本日の箇所には2つめのエピソードですが。安息日に主イエスが会堂にお入りになると片手の萎えた人がいました。会堂には主イエスに対して妬みや反感を持つ人たちがいました。おそらくファリサイ派の人や律法学者たちであったと考えられますが。彼らは「イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」というのです。つまり、彼らは安息日に病人を癒す行為は労働にあたり、律法を破ることになると考えていたのです。主イエスが癒しを行った折は律法違反として訴える機会を彼らは狙っていたのです。

その考えを見抜いた主イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われます。当時残念ことに貧しい人や病人といった人にはそうした状況があったのです。

ところが主イエスは人々の間に堂々と、真ん中に立つようにとその人を促されるのです。この主イエスの呼びかけは、「決してあなたを忘れていない」という神の声であったでしょう。私の愛唱聖句の一つであります旧約聖書イザヤ書43章4節には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」との神さまのお言葉がございます。

人の尊厳というのは、このようにいのちの主であられる神さまが与えておられるのです。「あなたの存在そのものが、神の前に価高く尊い存在なのだ。堂々と真ん中に立ちなさい」。こう主イエスは招かれたのでしょうね。

そして主イエスを試みようとする人たちに対して、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか。悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問われるのです。

このお言葉を聞いた人々は「黙っていた」とあります。それはどのようにも答えようがなかったからです。仮に彼らが「善を行うことです」「命を救うことです」と答えるなら、主イエスのなさったことを認めたことになり、結果的に益々民衆は主イエスに従うようになるでしょう。反対に、いやそれでも律法を厳守すべきだと言って病人を見捨てるような発言をすれば、彼ら自身の倫理性や人間性が問われることになりかねません。そのため彼らは「黙りこむ」しかなかったのです。

 

すると、主イエスは怒って人々を見回しました。彼らのかたくなな心を悲しまれたからです。どこまでも自分を正当化しようとする頑なさ。癒され、救われるいのちを一緒に喜べない冷たさ。病人を道具やモノのようにしか考えない彼らに対して主イエスはひどく心痛まれたのです。皮肉なことに律法の規定を厳格に守り教えることができた人が、神の憐れみと愛に満ちた律法の精神がわからず人を見下し、蔑視し、排除する者となっていたのです。

 

ここを読みます時、「原理主義」というものの恐ろしさを感じます。その根本の原理というものは大事であったとしてもそれが絶対化され、それにそぐわない者には議論の余地なく排他的に人間性を削ぐようなものになりかねません。

今日の世界もまた、姿かたちを変えた原理主義が横行し、時に自分と異なる者、相容れぬ者への排除や排斥し、極端な場合には死に至らしめるような悲しい出来事になっています。倫理や道徳心、宗教でさえ原理主義に陥る危険性があるのです。

それを避けるためには、相手を尊重し、対話と相互理解を築いていくことにありますが。思い込みや先入観にとらわれていれば、それもなかなか難しいものです。

そこで私たちに重要なのは、「律法を完成するために世に来られた」主イエス。このお方が私に、私たちに必要なのです。主イエスが律法の本質を完全に体現なさったからです。そうであるのなら、「今、主イエスならどう考え、どう行動なさるだろうか」。聖書の御言葉と祈りの中から、主イエスのお姿とそのお心がどこにあるのかを尋ね求めて行こうとするなら、私たちは自分の思い込みやあらゆる囚われから解放され、主なる神さまの真理に生きる道が拓かれていくのではないでしょうか。

 

さて、手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」とお招きになられた主イエスは、その人に「手を伸ばしなさい」と、さらに言われます。ルカ福音書(6章6節以降)にも同じ記事があり、その萎えた人の手は「右手」であったと記しています。おそらくこの人は右利きで、その手が萎えて、動かなくなった人であったのでしょう。どんなにお辛かったことでしょう。

この人に求められていることは何でしょうか。

お言葉どおり「手を伸ばす」ことです。それは、神の愛と祝福を受け取ることです。どんな素敵なプレゼントが差し出されても、それを良いものだと信じて受け取らなければ手にすることはできません。同様に神さまの大きな愛も、それに伴うゆたかな祝福も、主イエスから受け取らないなら何も生まれません。

この人は主イエスの招きにどんな感動を覚えたことでしょうか。そして彼の魂は心身ともに回復されます。彼は真に人を生かす神の招きに応え、神の御前における救いと解放の安息の日を得たのであります

ここに真の大きな救いの喜びがもたらされたことを聖書は伝えているのであります。

 

安息日の精神、それは日常の労苦や忙しさから離れて、人間本来の安らぎを取り戻す日であり、神の救いとその御業とを確認するとことにあります。この喜びを共に分かち合える機会が、礼拝、祈祷会、諸集会、家庭礼拝へとさらに拡がっていきますよう祈ります。

今日もいつくしみ深いイエスさまのまなざしが、私たち一人ひとりに注がれています。