(これはただの自分語りなので、そういうのが嫌いな方はそっ閉じしてください)

 

僕は野田洋次郎が好きだ。

 

中学時代から友達とカラオケに行けば必ずRADを歌った。

ギターを買ってからは「おしゃかしゃま」のイントロを狂ったように練習した。

高校時代は部活でRADの曲をいくつもコピーした。

大学時代、ライブに初めて行った時は一曲目から泣いた。

僕にとって彼は、おそらく誰にでも存在するであろう「同じ時代を生きる神様」の一人なのである。

だからこそ、彼の発言が炎上するたびに僕は穏やかではいられなくなるのだ。

 

 

神様という言葉を用いたが、僕は思考停止で彼を肯定できるわけではない。

僕が把握している炎上は数少ないが、漢文不要発言然り、今回の遺伝子発言然り、反論する側の主張が正当なように思える。彼の考え方は中学生レベルだという意見も目にしたが、正直なところ同様の印象を抱いている。

 

元来、これは決して馬鹿にしているわけではなく、そのいわゆる中学生的な「青臭さ」から来るキャッチーさはRADの大きな

魅力だったのだ。前前前世から君を探し始めたり、君と書いて「愛」と読んで僕と書いて「恋」と読んだりできたのは、間違いなく野田洋次郎の中の中学生が暴れ回ったからだと思う。

彼の直感による諸発言を否定することは、今まで自分が愛し続けたものを諸共否定しているようで、どうにも心苦しいのである。

 

つまり白状すれば、好きなものを否定するのが寂しい、というだけの話である。これこそ中学生的なのかもしれない。

 

 

野田洋次郎に対して、個人的に感じている魅力がもう一つある。

それは彼が「死を恐れる人」であり、「人間社会に不向き」であるところだ。

(二つじゃないかという指摘は丁重に無視することにする。)

 

「死を恐れる人」というのは我ながら雑で曖昧な概念である。

簡単に言ってしまえば、「死への恐怖を思い出し、足元がなくなっていくような恐怖を味わう」というのを自発的かつ日常的に

体験している人である。布団の中で毎晩宇宙へ放り出されている人のことだ、そう、君のことだよ(テンション)。

 

個人的な統計では、世の中では「死を恐れない人」の方が圧倒的に多数である。

「そんなこと考えていたら生きていけないよ」が「死を恐れない人」の口から出てくる定型文である。

おっしゃる通り、まともには生きていけないのだと思う。

 

科学のない、生まれ変わりを本気で信じられる時代に生まれていれば。

人間がメタ認知をできるほど発達した生物でなければ。

何度考えてもムダなのだが、この二点について僕は行き場のない怒りを収めた試しがない。

 

人の死生観は一括りにできるものではないし、完全な一致などありえないことは承知している。

しかし、どうにもこの世には「死を恐れる人」と「死を恐れていない人」がいるように僕には思える。これは幼少期からずっと変わらない。僕の周辺の人で、僕が「死を恐れる人」として認識しているのは父親だけである。それも、直接何かを語り合ったわけではなく、僕が勝手にそう推測しているだけなのだからいい加減なものだ。

 

そしてさらに、これも勝手に思っているだけだが、野田洋次郎は間違いなく死を恐れる人なはずである。

根拠を挙げると長くなるので割愛する。もちろん、僕が知らないだけで死を恐れる人はたくさんいるのだと思うのだが、単純に僕にとって一番わかりやすいメメントモリ人間が野田洋次郎だったのだ。

 

 

彼は実験的な音作りをする。言葉遊びも頻繁にする。曲中で変な声もしょっちゅう出す。

彼はただ、彼にとって気持ちの良い音に、気持ちの良い言葉をのせて、気持ちよく歌ってきただけなのだ。

世のため人のために音楽をしてきたわけではない。あくまで個人の見方であるが。

そんな彼が赤裸々に自分の中身を晒せば、自己中心的で視野狭窄な発言が飛び出すのは全く不思議ではないし、僕がその発言に怒りを抱くことはない。ただ、その発言により生み出される僕ではない人達の怒りは至極真っ当なものだと思うし、そういった発言をすることが影響力のある人間の「正しい姿」だとは到底思わない。

 

彼の作る音楽に僕は魅了されてきた。音楽と戯れていない一個人として彼が何を言おうが、その心の酔いが覚めることはない。

しかし、本当はただの人間であるところの野田洋次郎が、己が神秘性と中学性をもっと上手に乗りこなすことができれば素敵なのにな、とついつい思ってしまうのである。