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■里親も実親も

問題は変わらない。
あるブログに書き込みかけて承認待ちになっている長文がある、それを入れようかと思ったけど、それはちょっとやめる。
はてなのブログのまだ最近ので考えさせられるものもあった。
その方は、啓蒙的と言うか割と理屈が通用するところにいらっしゃる方のようで、そのような事も書けるのだろうなと思った。
こういう問題を考える時、現実との兼ね合いという問題が出てくるような気がする。
現実との兼ね合いって、理想が比較的通用する世界というか階層(ほんとはあっちゃいけないのかもしれないけど、人間は平等なのだからw)と、そうでなく現実にまみれた階層
現実にまみれたって、どういう事か・・・
うまく説明できないけど、地域性もあったりするかもしれないし、一概には言えないと思うけど
騙されたように生きなくてはいけない人たちというか・・・
いや、言葉が悪すぎる、なんて言えばいいんだろ???
その前に、ストックホルム症候群というのを、ご存知だろうか?
ぐぐってみればすぐわかると思うけど、ストックホルムの銀行が強盗に襲われて、立て篭もりなどあって、犯人たちと銀行員が接触があったら、銀行員が犯人たちを庇うような心理状態に陥ってしまったというようなエピソード。
これは、特殊な環境下での特殊な心理として、片付けられてるけど、実はそうでもないんじゃないかと思う事がある。
生存を希求する本能や生存を第一義に考える心理の表れとして、特殊な環境下で生き延びるために、そのような心理状態に陥ったのだ、という事になってる。
通常の言葉で言うと近いのは、強い者におもねる様な心理、だろう。それがもっと強烈に本人たちさえ意識できないような状態で起こった、という事だと思う。
このような犯罪者を好意的に見るような事には、特殊な環境でなければ陥らない、というのも本当だろう。
しかし、人間の中に、生きのびるためには強い者におもねりたいという心理や、本能のようなものが入っているからそうなるのだろう。
そういう心理は、ストックホルムの銀行内だけじゃなく、常日頃から日常的に活用されているような気がする。
勝てば官軍とか、金や権力のある人や、社会的地位がある人が、《エライ人》のように見えたり、VIPって感じに見えたり
なんだろう?それだけじゃ全然うまく説明できてないなぁ・・・
あぁ、思い出した、こういう言い方は?
「人は生活を守ってくれるものを、庇う考え方をする」とか「人は倫理より欲望を優先させる生き物」
ある程度教育を受けて理屈に合った事をやってれば良い人と、プロ奴隷みたいに生きなきゃいけない人
何の力も学もない庶民は、その場面場面での強い力みたいなものを、無意識に読んでしまうんじゃなかろうか。
親についても、批判について、すごく話がややこしくなってるのは、ある種の人々にとっては、親というものに対する子供の側からの批判というのが、現実的な力対(VS)力や立場ない状態での理想みたいに見えて、それでごにょごにょ思うんじゃないだろうか?(色々なケースがあるから全部自分に置き換えなくて良いと思うんだけど、なぜか書いてる人がすごく思いいれてた)
自分の中で、ストックホルム症候群のような状況ではないから、それほど顕著ではない矛盾みたいなものに、何となく気付いてしまいそうな刺激だから、エマージェンシーシグナルみたいなものが体内を駆け巡るみたいな
ちょっと違うかな
あるブログに(はてなじゃない)書こうとして承認待ちなのは、里親批判に里親のエゴの部分を指摘すると、里親側から反発がありブログ上で議論が白熱して、里親側も○さんに敵意丸出しですね、とか書いていた過去のエントリのやり取りを見たところ。
里親と言っても、露骨な虐待をしてる人ではなく、里親全部を非難される事に反発を感じていたり、里親志望の人たちで、里親志望の人にきつい批判をブログ主がしたら、別の里親だった人が敵意丸出しと書いていたというところでした。
それを見て思ったのは、エゴのない愛情はないので、身内のエゴだと許されるが、里親だとそうも行かないのだなぁという事でした。
里親は公費が給付されているし、一般の養育里親には実親に虐待された人が託されるわけではないし、実親と暮らすまでの間、託される場合もあるから、そりゃ身内と一緒にしてはいけないんだけど
そう思ったのでした。
身内のエゴでも、本当はおかしいんだけど、そういえばなぜなんだろう?と考えたら
里親制度がおかしいという事は本当は実親制度もおかしいのだろう。(理想を言ったり、神経質な見方をすれば)
おかしいけれども、エゴが身内だという事で、限度にもよるだろうけど、ものすごい暴力とかはっきりと虐待がわかるような状態じゃないと、かなりの部分馴れ合いのうちに、なあなあで済まされて行ってるんだろうなぁと思いました。
理想的な愛情を持つ親もいるでしょう、冷静な親もいるでしょう。余裕がある親もいるでしょう。
しかし、現実との闘いで傷ついた親たちには、なかなかその余裕がなかったりする現実というのもあるのかもしれないと思いました。
抽象的過ぎたかな