縄文時代は1万5000年前から2400年前まで1万年以上続きました。

その間の人口の変化を推察していきます。

歴史人口学という学問がありまして、古代からの遺跡や遺物などからその当時の人口現象を研究する学問です。1万年前の人数を統計や計算する訳ですから、非常に大雑把なものと考えてください。

以下の文中に細かな人数の数字が出てきますが、正確なものでは無く「当らずと雖(いえど)も遠からず」的なものです。

 考古学者の山内清男は北海道を含む日本列島の全人口を15万ないし25万人としました。そしてその分布について『西南に薄く、九州から畿内にかけてが3万から5万、東北部は人口一様に多く、中部、関東、東北、北海道はそれぞれ3万から5万とみておけば、大した間違いはないと思われる』と非常に大雑把に推測しています。

 

 

研究者に小山修三がいて、縄文遺跡の分布を統計的に吟味して時期別、地域別に人口を推計し、縄文中期の人口(北海道・沖縄を除く)を26万人と結論しています。これを1978年発表の「小山推計」といいます。

この推計の基礎と手順は①遺跡数 時代別、地域別に遺跡数の分布を調べる。②基礎人口 ③集落規模 ④8世紀の集落人口 ⑤関東地方の人口 ⑥時代別・地域別人口 、から人口を計算します。

 (小山推計 北海道・沖縄を除く)

 

 北海道の古代の人口について、札幌医科大学の高田純先生の論文発表がありますので下表に引用させて頂きました。

(高田推計)

 

縄文中期の東北の人口が46,700人ですから、中期の北海道の67,000人はかなり多い人口と思います。

北海道の縄文人の食料の中心が、動物(鹿・オットセイ・トドなど)や魚介類(カキ・ウニ・ホタテ・サケ・マグロなど)が多くを占め、植物(クリ・トチノミなど)を食べる量は少なかったのです。人骨を安定同位体の窒素と炭素の量を分析することで食性分析ができ、何を食べていたか分かりました。北海道は自然の食料に恵まれていました。

 本州の縄文人の骨を食性分析すると、植物(コナラ・クリ)を食べる比率が多かったのです。この為、本州の縄文人の方がデンプンを摂る量が多く、虫歯が多いと言われています。

 

縄文時代の地域人口は圧倒的多数で東日本に分布していました。

縄文中期をみても東日本七地域の人口は25.2万人と総人口(北海道・沖縄を除く)のなんと96%をも占めていました。これに対して、西日本七地域ではわずかに9千500人でした。東日本の人口は、激減した晩期でさえも86%を占めていたのです。

 

 1万年ほど前、日本列島の年平均気温は現在よりも2℃低かったとされます。

しかしその頃から気候は温暖化しはじめ、6千年前には現在より1℃高くなりました。それは現在の年平均気温が15℃の東京を例にとると、4千年の間に新潟市から高知市へ位置を動かしたに等しい変化でした。

この気候変化は人口にどのように影響を与えたでしょうか。

 

1万年前には、本州の大部分は落葉広葉樹林におおわれていました。

6千年前の最も気温の上昇した縄文中期の東日本には、暖温帯落葉樹林のコナラ・クリであり、西日本では常緑の照葉樹林のカシ・シイでした。

 縄文時代中期の東日本における人口増加と人口分布は、このような樹林帯の形成と密接な関係がありました。

木の実の生産量は縄文中期の落葉樹林で圧倒的に多く、特に暖温帯落葉樹林のコナラ・クリの生産性が高いのです。それが東日本の高い人口密度を支えました。また河川を溯上するサケ・マスも人口密度を支えました。

 

 縄文中期と後期のあいだ頃から気候は再び寒冷化し始め、気候の極端な冷涼化がありました。この冷涼化は、およそ4千300年前に起こり、その年代から4.kaイベントと言われています。

2千500年前の年平均気温は現在よりも1℃以上低くなりました。それ以前の温暖期よりも3℃も低下したことになります。

 

 気候寒冷化の植生に対する影響は、西日本よりも東日本で強かったようです。

東日本の高密度人口を支えていた暖温帯落葉樹林(コナラ・クリ)は著しく縮小し、食料が減少したのです。

東日本で起きた気候変動による植生の交替は、好環境のもとで飽和状態に近い水準に達していたと思われる関東~中部地方の人口に、大きな打撃を与えました。

 

【人の移動】

 縄文中期から晩期にかけて南関東と東山では人口の90%以上、北陸でも80%も減少してしまいました。

ところが東日本の人口激減とはうらはらに、西日本では減少どころか中期から後期にかけては2倍、人口が激減する晩期までを通しても1.5倍に増加しました。

 

 西日本の人口増加は東日本の縄文人が西に移動したことも十分に考えられます。西日本における集落・住居跡数の増加です。

近畿地方では縄文中期末に、中国・四国地方ではそれよりやや遅れて後期の初頭から前葉にかけて、遺跡数の顕著な増加が認められます。西日本においては、たとえば京都府桑飼下遺跡などにおいて古くから指摘されているように、遺跡から打製石斧が多く出土するようになる現象や、石囲炉をもち平面形態が隅丸方形になるような住居跡が出現するなど、東日本的な様相が縄文後期になりみられるようになります。それはあたかも、関東地方や中部高地を中心とする東日本から西日本へ、ある程度の規模で人の移動があった事をうかがわせるものです。

 

【縄文社会の変質】

縄文時代の中期末から後期初頭の関東地方では95,400人から51,600人と人口が減少し、大きく遺跡数が減少します。

縄文中期の東日本では各地に大規模な環状集落が営まれ、発掘調査によって検出される住居跡の数が100棟を超えることも稀ではなかったのです。

しかしながら、中期のおわり頃から後期の初頭になると、関東地方では環状集落のような大規模な集落はみられなくなります。

また、それに応じて人口も減少し、人々は住居が1棟から数棟しかない小規模な集落に居住するようになりました。

 

【気候冷涼化の生存戦略】

 縄文後期になると縄文海退で低地・水辺が広がり、関東地方では集落そのものが低地に降りていき、水辺を彼らの集落景観、生活領域に積極的に摂り入れていく傾向が顕著となります。

 この時期、集落の立地は台地上だけでなく、低地をも含み多様化していった事がわかります。例えば、埼玉県樋ノ下遺跡や清左衛門遺跡などでは、後期前葉から晩期にかけて住居が低地へと進出し、集落全体がより低地へと降りていく様子をうかがう事ができます。

 

 この中期末から後期初頭にかけての気候変動に対して、当時の人々がとった生存戦略は、大型集落で多くの人口を維持するような生活様式を止め、一集落あたりの人口を減じて小規模な集落へと分散居住するというものでした。

 それは、後期初頭の称名寺式土器の時期(4400年前)の集落から発見される住居跡の数が、一棟ないし数棟にとどまる事からも推定できます。

青森市の三内丸山遺跡(5900~4200年前)は東北でも最大規模で500人の集落でした。この4.kaイベントの極端な冷涼化で、小規模な集落へと分散居住をし、東北の人口が中期46,700人、後期43,800 人、晩期39,500人とある程度維持できたものと思われます。

 

 

【渡来人の流入 弥生時代】

縄文晩期が終わり弥生時代(3000年前~1700年前)に朝鮮半島(韓国の釜山あたり)から対馬~壱岐~北九州と渡来人(弥生人)が集団で船で流入しました。

最初の水稲農耕が北九州で確認されたのは3000年前ですが、日本列島に渡来人が流入し、全国平均的に弥生人が定住したのは2400年前頃と認識されています。それで弥生時代は2400年前~1700年前頃と表現される事が多いのです。

弥生時代の人口は60万人といわれております。縄文晩期の日本の人口(北海道を含む)が10万人ですから、弥生人の流入により九州~四国~中国~近畿と西日本から人口が激増したことが分かります。

 

 

  



 【北海道在住 峯岸清行】