『北黄金貝塚と有珠モシリ遺跡』の講演会が2021年8月7日に伊達市梅本町のだて歴史文化ミュージアムでありました。
講師は東北芸術工科大学歴史遺産学科の青野友哉准教授です。

有珠モシリ遺跡は北海道伊達市有珠町に所在する縄文時代の遺跡です。


この遺跡は今から約3000~1700年前の縄文時代晩期から続縄文前半期までの遺跡で、墓が21か所あり、続縄文期の13か所の墓は一度埋めた骨を掘り出し、他の人骨とともに埋め直す「再葬墓」でした。

青野先生の講演のなかで驚いたことがありました。
昨年発掘された2800年前の再葬墓から11体の若い男性の頭蓋骨や遺骨が発見され、その8体の頭蓋骨に石斧(ハマグリ型)による陥没(へこんだ傷)が確認されました。
6体の頭蓋骨の傷跡に生存反応が無く、石斧の打撃により死亡したと思われます。残る2体は生存反応があり、石斧の受傷後に治癒したと思われます。

 

この石斧による陥没痕から、8人が同一形状の石斧により攻撃された可能性もありそうです。また他の遺骨には弓矢による鏃(やじり)が刺さった痕跡があり、小集団によるなんらかの争いや闘いが有ったのかも知れません。
同年代の有珠モシリ遺跡から半径30㎞圏内の遺跡を調べたところ、10㎞圏内に入江・高砂貝塚があります。

北海道洞爺湖町高砂町44番地(旧虻田町)に入江(いりえ)・高砂(たかさご)貝塚があり海に面した高台にあって連続した2つの地点からなります。入江貝塚は縄文の前半から後半にかけての、高砂貝塚は縄文の後半から擦文(さつもん)・近世アイヌ時代にかけての遺跡です。入江地点には3か所の大きな貝塚があります。ここは墓地でもあり、19体の人骨が発掘されました。多数の竪穴住居跡や 盛土遺構(もりどいこう)、貯蔵用の穴なども見つかっています。また高砂地区では縄文時代の終わり頃のお墓が23か所あります。

その高砂貝塚の約2800年前の墓の遺骨の腕の骨に、防御創がありました。
この事から想像できることは、高砂縄文村と有珠モシリ縄文村の住人のあいだに、争いや闘いが有ったのかも知れないのです。
ひとつの村の人口が30人程度とすると、その半分の15人が男性で、子供や老人を除くと10人が若い成人男性ではないかと思われます。

高砂村の10人の成人男性と有珠モシリ村の10人の成人男性が、なんらかの原因で争い、高砂村の一人が腕に傷を負い、有珠モシリ村の6人が死亡し2人が怪我をした。
高砂村の武器はハマグリ型の石斧と弓矢だった。おそらく、高砂村の先制奇襲攻撃により有珠モシリ村の成人男性が敗退したのではないでしょうか。

高砂村と有珠モシリ村との距離は6㎞程度で、歩いて1時間ほどの距離です。
この二つ村の争いの原因は何だったのしょうか。
〇食料の問題
〇結婚の問題
〇宗教の問題
〇領地の問題
などが考えられますが今となっては謎です。
この争いを戦争と表現できるかは微妙です。

弥生時代には戦争があったと言えると思います。
ここで戦争の定義を、『軍隊と軍隊とが兵器をもちいて争うこと。特に国家が他国に対し、自己の目的を達するために武力を行使する闘争状態』とすると明確になります。
縄文時代には兵士や軍隊や国家が無かったので、戦争とは言えないと思います。

 

弥生時代には豪族やたくさんの小さな国(国王の存在)や兵士がおりました。
その小さな国が、冷害や干ばつなどで稲作が不作のときに、隣国などを武装して襲い、倉庫から備蓄された米などを奪い合ったのです。


他国を襲う殺戮は、弥生時代の遺跡から女性や子供の殺傷痕のある遺骨が発見されており、あきらかに滅亡をかけた戦争があったと思われます。


高砂村と有珠モシリ村の争いが有ったとしても、女性や子供の被害者はいなかったと思われますので、やんちゃな男の争いと言えるかも知れません。

(有珠モシリ遺跡全景)

 

縄文時代には戦争があったとは言えないまでも、小集団間や個人間における衝突と暴力はあったと考えざるをえません。
縄文時代は1万2千年続き、その村は1000~2000年間も1か所に定住し暮らしを営んだわけですから、共同共生・持続可能・循環型な社会であったことは間違いないでしょう。

 

 

(北海道在住 峯岸清行)