古代では日本列島が無人の頃、中国大陸と日本列島が繋がっており、北は大陸とカラフト・北海道が陸続きで、南は対馬海峡が陸で繋がっていました。
その大陸から日本列島に人間が渡って来たのが日本人の起源とされています。
その人達が旧石器時代を経て縄文人となり日本人の原形となりました。
日本人の原形は縄文人と定義できます。

 

その後地殻が変動し海水面が上昇し、縄文時代には日本の国土は中国大陸との陸続きでは無く、海に囲まれていました。


 縄文時代は紀元前1万3000年から始まり、紀元前1000年までの約1万2000年の期間です。

 


縄文人は狩猟採集で、鹿やウサギ・魚・貝・海藻・ドングリ・木の実・野草を食料とし1万2000年の間、戦争も無く平和に共存して暮らしていました。
その当時の縄文人の人口は約20万人といわれております。

 


縄文人の時代が約1万2000年続いた後、紀元前1000年頃に中国大陸や朝鮮半島から中国人や朝鮮人が九州や裏日本に渡って来ます。
その人達を弥生人と呼びます。
それから紀元300年までの約1300年間を弥生時代といいます。
弥生人は大陸から稲作を日本に持ち込みました。

中国や朝鮮で戦に負けた人達、つまり中国・朝鮮の弥生人が船で九州などへ次々と渡り人口が急激に増えて行きました。

 

始めは日本の縄文人と中国・朝鮮の弥生人は争いも無く共生していましたが、中国・朝鮮から来た弥生人は稲作を広めながら強力な弓や、石の矢尻を使い武力で侵略を始めました。


弥生人の矢尻は、縄文の人々の矢尻の2倍の大きさがあります。
材料は、サヌカイトというかたくて鋭い石が使われています。
また青銅器銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器を使い、鉄器の鍛造鉄斧も使い、石器と土器しか持たない縄文人を北へ北へと追い出して行きました。
 弥生人と縄文人はその中で交わり、混血児が各地で生まれました。
縄文人は共生と平和な人達で、弥生人は好戦的で攻撃的な人達です。

 

 弥生人は稲作で米を備蓄し、農民と支配者の関係が成立しました。
天候の不順などで米の生産量が少ないと、弥生人の部族は、他の部落を武器を持って襲撃し、倉庫から簡単に米を奪い合う争いが始まりました。
規模が大きくなり、支配者・兵士・農民という小さな国があちらこちらに出来ました。
九州から近畿地方まで、弥生人の沢山の国と王が出現したのです。

 

宮城県仙台市の隣に多賀城市があります。
多賀城は大和朝廷の蝦夷(縄文人)征伐の拠点として使われたものです。
ここから兵士たちが縄文人を北へ北へと追い立てました。


そのような朝鮮や中国から来た弥生人の集落は強大になり、追われた縄文人は東北の北、青森まで追いつめられました。

 

こうした弥生人の集落を戦で統合した国王である『天皇家』の先祖は、朝鮮半島の百済から来た人達と言われています。
祖先は満州の北部、黒龍江省付近にルーツを持つ部族であり、騎馬民族といわれます。
ツングース系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)がヤマト王朝を建国した天孫族です。
天皇の先祖は、紀元3世紀頃に朝鮮半島から九州に渡って来た天孫族と考えられます。

 

現在の科学ではDNAの解読で、出身地や人種などが分かるようになりました。
天皇家の人々のDNA検査が実施されれば、天皇家の血筋や民族も分かります。 しかし平成天皇・皇后からご遺体を焼いてお骨で埋葬する事になりましたので、天皇家のDNA解析も難しくなります。

 

 戦争に負けて百済を追い出されて日本列島にわたり関西地方に居ついた天皇家の人たちは支配者階級だったのです。

 

天皇家は大正時代に朝鮮とより濃く血縁を結びました。

 李 方子(り まさこ、朝鮮語: 이 방자〈イ・バンジャ〉、1901年(明治34年)11月4日~1989年4月30日)は、日本の元皇族であった。


梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠と大正9年4月28日に結婚して妃となった。
このように朝鮮国と日本国は天皇制では親戚縁者でした。

平成天皇(明仁天皇)は2001年の記者会見で『桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じます』と説明しており、テレビで放映されています。

 

紀元前1000年以前の日本列島の本州や九州・四国・沖縄・北海道には、縄文人しか住んで居なかったのです。

 

紀元前1000年頃から、朝鮮人や中国人が九州などに渡って来たのです。約1300年をかけた異民族の大量流入です。
その人達の事を弥生人と言います。
弥生人は九州や関西地方を占拠し、支配体制を作るわけです。
戦争が強く、西日本を占領した王が天皇だったのです。

 

天皇は日本列島の支配者になろうとしました。
朝鮮半島から輸入した鉄を原料に、鉄製の武器を量産し、兵士を増やし、元々の日本人であった縄文人を戦争で滅ぼそうとしました。

その天皇朝鮮人とバレテしまっては、天皇の権威が保たれないのです。
それで天皇制の官僚に、いつわりの神話である『日本書紀』を作らせるのです。今から1300年前奈良時代の紀元720年に作られました。
天照大神の天皇が、日本海を杖でかき混ぜると日本列島が出来た。
その創設者の日本人の純血種が天皇家なのだと作り話を広めた。
朝鮮人である天皇が、日本人の純血種だと嘘を広めたのです
文字は朝鮮半島から輸入され、紀元4世紀頃には日本に伝わったのですが、豪族や各地の王国に歴史書や神話が残されていない事は不思議な現象と思います。
消えた日本の歴史と言えるでしょう。

 

これが平安時代~江戸時代~明治・大正・昭和・平成・令和時代と、今も続いているのです。
2019年4月の天皇・伊勢神宮詣でのNHK総合テレビで『天皇の祖先は天照大神(アマテラスオオミカミ)です』と放送し、知識人から顰蹙(ひんしゅく)を買っています。

 

そして元々の純粋な日本人である縄文人を、戦争で関東から東北地方へ追い出し殺戮し、土民として地下へ埋没させたのです。


縄文人は「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれ、各地の山中で自給自足の生活を送りました。
さらに、最後まで抵抗したアイヌの人々を住んでいた土地から追い出し、賤民としてあちこちに分散させました。
 そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と身分制度を確立したのです。

 

縄文人の末裔であるアイヌ人が北海道で生存しているのは、わずかに1万4千人だけです。
これは天皇家にとって、日本国民に知られては、非常に都合が悪い歴史なのです。


それで、科学や文化が発展した21世紀の今も、日本の歴史教育が改ざんされ、あいまいなまま今日に至っている訳です。

 

当時の弥生人に北限まで追われた日本人の起源である縄文人の一部は、北海道に渡り縄文の暮らしをしていました。

 

 徳川幕府・松前藩はこの縄文人達を蝦夷のアイヌと呼び、虐待し搾取して栄えました。

 

 明治政府となり、アイヌ人(縄文人の発展系)は土地・川・海を奪われ(明治32年制定・旧土人法)、死ぬまで使役につき人口は減少して(約1万4千人が生存)現代に至ります。

 

旧土人法は平成9年まで使われていました。

アイヌ民族を先住民族として初めて位置づけ、アイヌ文化を生かした地域振興策を行うための交付金の創設などを盛り込んだ新たな法律が、2019年4月19日の参議院本会議で可決・成立しました。
『アイヌ新法』が成立したのは、平成最後の月のことなのです。

 

北海道の古代史に弥生時代は有りません。
北海道では、旧石器時代⇒縄文時代⇒続縄文時代⇒擦文時代⇒アイヌ時代となります。

弥生人は青森までしか来なかったのです。

 

  研究者である札幌大学教授の本田優子氏の調査で、アイヌ人のDNAの約7割は縄文人のDNAと一致している事が確認されています。

 

 小学校・中学校・高校の歴史の教科書には、縄文人・弥生人の正確な記述は有りません。
日本人の原形は縄文人です。

アイヌ人が、1万5千年前の古代から日本列島に住む縄文人の正統な末裔である事を、すべての日本人が認識することが大切です。
日本人の原形として今に残っているのはアイヌ人なのです。

 

 

 

【北海道在住 峯岸清行】