センセイは顔を上げて、一瞬、考えるような顔をした。「ああ」と小さくつぶやくと、
またディスプレイに視線を戻し、キーボードを叩く。
やわらかく、少しリズミカルなタッチ。
この研究室に来るのは、およそ1ヵ月ぶりだった。すこし肌寒い季節になっていた。
もうコットンのストールじゃないほうがいいのかな…と指先でその花柄に触れる。
「ローズウッド、かな。それ」
「あ。はい」
小さな陶器のストラップにつけていた精油だった。カバンからふんわり香る。
「キミ、それ好きなの?」
「まだあんまり、アロマとかよくわかんないんですけど。なんとなく好きで」
「ふふ。そう」
センセイが笑ったのを初めて聞いた気がする。
「なんとなく好き、っていうのも大事だと思うよ。アロマって」
アロマのお店のお姉さんも同じようなことを言っていた。あれから、週イチのペースで
あのお店に顔を出している。
「好きだなぁ、っていう香りはその働きも出やすいって言われてるんですよ。アロマの
分子が脳に働きかけていく際に、本能を司る部分に届くんです。だから一般的に
リラックスによいとされているラベンダーなんかでも、嫌いなひとにとってはあんまり
落ち着けないそうなんです」
「私が、好きかどうか……」
お姉さんはちょっと首をすくめた。「そればっかりは私たちにはわからないんです」
背の高い学生がひとり、研究室に入ってきた。分厚いコピー用紙の束を手にしている。
つかつかとセンセイのデスクへ向かう。
そして間もなく、カナも到着した。私に小さく手を振ると、にかっと笑った。
ぺこりとセンセイに頭を下げて研究室を出ると、カナはさっき受けた説明会の話をうれしそうに
始めた。そういえば、カナはずいぶんマイルドになった。男子相手にでもガンガンまくしたてて
いたチア部の頃とは大違いだ。
この1ヵ月。私は少しでも変わっただろうか。帰りの電車でぼんやり考えた。
ひとつだけ、ないことはない。
好きな香りを見つけたこと。ローズウッド。
その穏やかでほんのり甘い木の香りを見つけたとき、なんとなくほっとした。それまで頭の
中で、きゅうっと締め付けられていた部分がじんわりとゆるむように思えた。
「好き……」
思わず目を閉じて、つぶやいていた。
そのとき、お姉さんは隣で微笑んでいた。そして、レジに向かう私に、そっと付け加えた。
「ローズウッドは絶滅が危惧されるような貴重な植物なんです。大切に使ってくださいね。
もちろん他の精油も。植物の大切な命ですから」
精油が、植物であるということ。コトバではもちろんわかっていたけど、実感はしていなかった。
バッグから穏やかにのぼる香りに目を閉じる。
ローズウッドの精油の小さなボトルは、どれくらいの木で作られているんだろう。どこかで育った
この木々と、私が出会えたことの不思議をイメージしてみる。
今日のこの気持ちを忘れないでいたいと、ふと思えた。