もうすっかり、1年以上ブログ書いていませんでした。

習慣から遠のくと、正直だるくなってしまい放置というものになりました。


しかし、その間にも世間や個人的にもいろんなことがあったなってしみじみ思います。


まず、個人的には年をとり、気になることがあっても、まっいいや、そのうちって感じになったのと、


どうせこの世も自分が生きているあいだだけ存在し、

その後はどうなろうがわかりようもないので、ざ・現生とは自分とともに在り、それが全てと半ば勝手に終結させました。


今からどんなに頑張っても、文科省の定めによるどのジャンルかのテキストに登場できることもなく、

知られざる一個人として、

生きていたということです。


しかし、欲を言えばデジタル的な展開となった世界競争社会でのWikipediaとかに、載りたいものだなぁっとか

実は考えています。(笑)


複数の人の存在がある限り、あり続ける社会と考えると、変質を繰り返し形態が変わるわけですが、そこまで考えてられませんね。


若かりし頃の社会では、音楽とか、芸術的なセンスとかそれに基づく才能や個性がモノを言うといった文化がありましたが、

グローバル化での生産性、多数派主義が絶対となった現状には、手っ取り早い携帯電話での操作と手軽な閲覧での需要が何より優先され、人々の支えもそれなりに変更されました。


幸せを感じる質が明らかに、変わりました。



どうなんですかねー、貧富の差とか格差が激しいと言われる世の中で、確かにそうだとも思いますが、

仮に貧しいと思ったとしても、イコール不幸と思わない人が増えているのかも知れません。


だから、政治をやっている人たちがどうだの言っても、あまり響かないし金を破格にネコババしてしまっても許されるんだとも思えます。


アメリカ化での社会とは、群衆での動きが優先されるわけだから、みんなが例えばユニクロ着て、スタバやマックに行けたならそれで、この上ない日常で、友人とも深入りせずお茶でもできれば、それが確固たる幸せの日々なんだと思います。


あと普段は、携帯とかでのゲームなんかで繋がっていたら孤独ではないと判断し仕事も安心して、取組むことができるのかも知れません。


人の生態的な構造は変わりようもないですが、メンタル的な部分は無限に変更され、


目覚めろ、貧しいことは不幸である

って言っても

なんのこっちゃ


ってなるわけだから

政権交代も永遠にあり得ないわけだと思います。


近代は、そう言った価値観や捉え方の社会な訳だから

布教とか説教しても無駄のように思えますが、

私の場合は昔性動物なので、YouTubeとかでも

落選運動とかしている方たちをみると

感度したりしてしまいます。


生きる価値観の氾濫といいましょうか、iPhoneとかに

すがっていても、ダイレクトな幸せは訪れない

ですが、これでお金を稼ぐ時代なのも確かだし


時代的には江戸時代までのような、日本の国が

天皇、役人、奉行所、スマホを持った農民のように

うまいことコントロールされてしまったように

思えて仕方ないです。


もう少し乱れれば、内戦的な

一揆もあるのかなと思えます。