本稿は技術提案ではなく、将来的に想定され得る存在形態に関する思考記録である。

人間の身体は、外見、体質、老化、病気、寿命といった不可逆かつ非選択的な制約を持つ。これらの制約は倫理や努力によって解消されるものではなく、生物であること自体に内在する条件である。

本稿で扱う関心は、人間的身体性の保存ではない。焦点は、自己同一性の連続と、世界を観測し続ける主体が、非生物的基盤上で成立し得るかという点にある。

自己認識は、生物学的実体そのものではなく、「自己に関する内部モデル」として構成されている。この前提に立つならば、肉体を失い、存在がデータとして維持される状況においても、「自分は今データとして存在している」という自己モデルを形成することは理論的に可能である。

その際、人間的感覚の全保存は必須ではない。内臓感覚、痛覚、性欲、空腹といった身体依存的要素は削除されてよい。必要なのは、外界からの情報を入力として受け取り、それを観測対象として解釈できる機能である。

仮にセンサ群を備えた機械的身体と接続されれば、当該主体は再び物理世界に因果的影響を及ぼす存在となる。これは生物的生命ではないが、観測者としての要件は満たしている。

本構想は不死性を目的としない。むしろ重要なのは、存在の終了を自己決定できる点である。観測可能な差分が消失し、世界が完全に予測可能となった段階を「観測可能な最終地点」と定義し、そこで主体が自己削除を選択できるならば、それは生物学的死とは異なるプロセス終了となる。

宇宙の真の始まりや終わりが観測不可能である可能性は高い。本稿はそれを前提とし、「到達可能な範囲での観測完了」を終点と定義する立場を取る。

現実的には、筆者が生存中に到達し得る最大地点は、自己データを基盤に思考プロセスの一部をAIと統合する段階であると考えられる。これは完全な移行ではなく、拡張された自己に留まる。

将来、本構想が一般化した場合、初期段階で残された主体は不完全な個体として評価される可能性がある。しかしそれは、人類が自己連続性を外部化しようとした初期的試行の記録として、別種の価値を持つ。

本稿は結論を提示するものではない。ただ、こうした存在形態を志向する主体が存在するという事実を、記録として残すことを目的とする。