「人として生まれてきたということは、この赤ん坊も死ぬことが約束されているということだ」とは確か福沢諭吉のセリフだと思うが、出典はっきりとは思い出せない。死を考えることは生を考えることであり、「板子一枚下は地獄」の危険なバイク社会のベトナムに生きる筆者にとって実感を持てるテーマである。糖尿の持病もある。〈死に忘れ社会〉、〈生の延長〉に従事する医学が発達した日本では、生の感覚が鈍っていて、だらだらした時間がずっとあると錯覚するような日常を送る人も多い。他人の死を見たとしても所詮は死を経験できない以上、いつまでも他人事である。できれば死など意識したくはない、死ぬ事実を忘れたい。しかし、自分自身がいつでも死ぬかもしれない社会に身を置くと、そういう意識でもいられなくなる。

 五年ほど前のインドで大学教員をした頃、半年間大学構内に軟禁されたことがある。渡航前の仲介業者とのスカイプ面接では、自由な生活が保障され、肉魚は食べられると言われていたが、全部嘘だった。危険だから外に行くのだけはやめてくれと言われていたが、「いつまで閉じ込める気か。ふざけるな」と言って、肉や魚を食べに外出するのだけが一日の楽しみだった。その日の歩行中、後ろから突然バイクにはねられ、二、三メートル突き飛ばされ、少しばかり記憶を失う事故に出遭ってしまった(詳しくは大井『日本語教師放浪記―ベトナム・ミャンマー・台湾・インド編―』を参照)。意識を失い、馬の通り道に倒れた筆者は、現場の前にある行きつけのカフェの店員らによって救出された。防犯カメラに映る加害者はそのまま逃げていった。カメラのデーターをもとに警察に報告に行ったのだが、人の話を聞いた挙句「So,What do you want to do?」と言われ、暗に調べてやるから金を持ってこいと言われ終わりであった。チェンナイの日本領事館に行ったが、それは諦めるしかないという対応であった(こういう日本政府の対応にはいつも業を煮やす)。これに近い経験として、インド留学をした山際素男は次のように書いている。

 「ある日、運転手と案内のインド人K氏とともに、街を離れて郊外まで車で出かけることになった。車が田園地帯に入り、道路には畑に急ぐ農夫の群が次第に増えていったその途中、突然ドスッという鈍く気味の悪い衝撃音と同時に、大きなものがフワッと宙に舞い、ゆるやかな放物線を描いて前方に落下した。車はブレーキを軋ませた。 するとK氏は短く一言、「チョロ(いっちまえ)」と命じ、轢かれた農夫の姿はみるみる遠のいていった。 「ストップ、ストップ!」慌てて叫ぶ私を、K氏は冷たい笑みで黙殺した。運転手は、ペロリと赤い舌を出し首をすくめると、アクセルをぐんと踏み込んだ。「ストップ!」私は叫び続けた。しかし、K氏は厳しい眼で私を睨み付け、一言も発しなかった。」(『不可触民と現代インド』)

 この命の軽さはインドに生活した者でなければ分かりにくいかもしれないが、誇張なしで事実だろうと思う。

「(注:留学先の)パトナに戻ってから、私はK氏に問いただした。 「あんな轢き逃げが世間に知られないはずはない。直ぐ新聞に載り、司直の手がのびるだろう」と私がいうとK氏は、 「そんなことはないよ。轢いたのはまぎれもなく〝アンタッチャブル(不可触民)〟なんだから。あんたもこのことは黙っていたほうがいい」 といったきり、普段と変わらぬ顔に戻ってしまった。彼のいった通り、轢かれた農夫の周りには大勢の農夫たちが目撃していたにもかかわらず、この轢き逃げ事件はパトナのいかなる新聞、ラジオでも報道されず、警察も全く動かなかった。 はねられた農夫が〝不可触民〟だったからだ。 この黙殺された〝事件〟を境に、私は悶々とした日々を送ることになった。」

 四〇年前の出来事だという。同書は平成一七年(二〇〇三)の刊行であるから、約六〇年も前のことだ。五四年後に筆者は奇しくも似たような体験の被害者になった。大学構内で床屋、クリーニング屋、清掃員として従事する不可触民は、相変わらず差別されており、この山際が書いているように、轢き殺された不可触民の生命は〈鴻毛のごとく軽い〉のだろう。近代の人権思想や進歩主義とは無縁の世界なので、恐らく今も何も変わってはいない。これが筆者にとってのアジアでもある。死の親近性であり、もっと俗にいえば生の軽さの世界。そこでは擬似的ながら生の価値を相対化する経験を得た。

 人の生が軽かった時代、西田幾多郎は子供七人のうち五人を先に失った経験を持つが、その彼はこんな言を残した。

 「死の問題を解決するというのが人生の一大事である、死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる」(「我が子の死」)

 この生と死の意識についていえば、日本人は生命尊重主義の戦後と徴兵が義務であった大日本帝国とで大きな断絶があるのだろう。生きている時間が短ければ、その価値について考えを巡らすのが普通である。福沢諭吉は、

「況して人間の如き、無智無力、見る影もなき蛆虫同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なきのみ。」(『福翁百話』)

 と述べたが、蛆虫のように自分自身を軽い存在と意識すれば、活力を持って生きられるということにもなる。生を過度に大切にしすぎればリスクから遠ざかるが、現在のように生の活力を得られにくい鈍重な生き方にもなろう。