東日本大震災の時、日本人は規律正しく、世界の賞賛を受けたのはまだ記憶に新しい。暴動一つ起こさず、どこでも列も乱さないことに驚いた外国人は多かった。こういった日本称賛の海外の声を常に誇らしげにネトウヨは好んで紹介し、日本スゴイ論にうつつを抜かしていた。

ベトナム人を見ていても思うが、まずレジの前に並ぶことすら教えられていないのでできない。日本人には 身体感覚として染み付いている。これは学校教育のおかげだろう。

これは日本人の従順さの表れであり、悪くいえば服従精神とも言える。仮に消費税が50%に上げられたとしても日本人は無気力 だから立ち上がることなく 絞られるだけ なんじゃないかという気がしてもいる。

ブラック企業が存続できるのは、労基署を含めていろいろな行政機関や 弁護士事務所があるのに理不尽な待遇をされても訴えでずに立ち上がらないからと聞いた。多くの日本人は愚痴をいうのが関の山である。

私には、この国民性は危うさとして映る。

〈マスク警察〉が跳梁跋扈し、「マスクしてください」と騒ぐ国民性は、戦時、「(戦争に協力しないのは)非国民だ」とちょっとでも贅沢したりする人を見つけては騒いだのと同じ。こんなに政府にとって ありがたい 国民性 はない。政府の方針と違うことをしたら国民の方が騒いで政府への恭順を示すんだから。「お上が決めたことなんだから守りましょう」

日本政府にとってみたら日本国民の存在は何も怖くはない。イケメンだなどの理由で鼻くそをほじっていても、K進次郎などは当選し続けるだろう。

真鍋叔郎氏のように日本国籍を捨てたノーベル賞受賞者は、日本型調和の世界に生きられないから日本に戻らないと言ったが、この気持ちはよくわかる。

外国の日本賞賛を素直に受け入れるメンタリティーは、自分達でものを考えていない証拠であり、現代の日本社会を進歩させようという懐疑精神も欠落している。

福沢諭吉は

 「近来日本の状況をみると、文明の虚説にだまされて抵抗の精神は次第に衰退しているようだ」(現代語に改めた『丁丑公論』1877年)

 と述べた。管理社会(文明)に慣れすぎて、管理される状態が快楽になってしまうと、人々の精神性はやがては社会の奴隷状態になる。

こう述べた福沢は西郷が兵をあげ大義名分を破ったと言ってもそれは政府に対してなのであって、天下の道徳品行を失ったわけではないと強調する。

もう少し日本人は自分たちの国民性に疑いを持った方が良い。誠実さは、過剰になれば愚直であり、日本政府の《国壊議員》から利用されるだけだ。