一昨日、昨日の続き。


 佐伯啓思氏は団塊の世代は非常に 中途半端であるという印象を持っていると語っている。以下要約。


 哲学者のオルテガは大きな出来事が世代特有の価値観を作ると述べた。団塊の世代には特有の価値観というものがなかったのではないか。


 団塊の世代の親世代には、 戦争体験というものが非常に強力かつ 重いものとしてあった。 それに比べて 団塊の世代は戦後民主主義教育が広く行き渡っていたものの、一方で親教師は戦前世代の人間たちであったため、彼らが醸し出していた倫理観、規律といったものがある程度体に染み付いている。ところが もう一方で学校で教えられた自由・平等・民主主義という考え方が頭に入っている。この二つの価値観の間に、ある種のギャップを感じていた。


 親の世代は自由・平等 ・民主主義が大事だと教えながらも 実際は体罰を行ったり 権威主義的なことを言ったりする。 団塊の世代はそういったことに対する反発、特に権威主義に対する反発があったと思う。ところが反発はしていても体には染み付いているものだから団塊の世代にも権威主義的な考え方は残ってしまった。昭和30年代は体罰 や地域の共同体といったものが穏やかに残っていた時期だった。つまり 親世代への反発と言っても観念的だった。 だから 全共闘運動も命をかけてまで 本心から社会に反発し参加するものは少なかった。麻疹のように広がった文化的社会的流行現象だったと思う。


 このような背景から私は団塊の世代は自分たちが擁護できるような強い価値観を作り出すことに失敗したと考えている。 団塊の世代に続く新人類は明らかに違う価値観を持っている。個人主義が進みお互いに干渉しないという風潮になった。価値観については話さないし、個人的事件に押し込めてしまって社会的次元で論じることがなくなった。


以上。


 両親と学校教育の板挟みになった世代が 団塊の世代であったということだろう。私は昭和56年(1981)生まれだが、まだ学校教育では体罰があった時代だ。30年前の先生は 46歳だったから 団塊の世代だった。かなり悪ガキでいたずらばかりしていたからよくビンタをされたが、今となっては感謝をしている。団塊の世代についてはよく悪くも言われるし、日教組のことは好きにはなれないが、イデオロギ以外では良い面もあった。彼らは子供には権威を持って学校を運営していく意思を持っていたと思う。

 この文章においては 佐伯氏が 権威主義についてどのように考えているのかわからないが、社会において父性や権威を持った存在は 必要である。そういった存在があったのがおそらく団塊の世代ぐらいまでだったのかもしれない。あとは単に権威を茶化したり、馬鹿にしたりするそういった世代にとって変わっていったのである。

 今は互いの価値観をひたすら相対化する社会になった。従来の価値観の破壊である。

 「まだ結婚しないの?」

 「お兄ちゃんそれ日本ではシンハラっていうんだよ」

 「何それ?」

 「シングルハラスメントだよ。結婚についてどうのこうの聞くのは結婚至上主義者の妄言よ」

 これは私が一時帰国した際にいとこの34歳に言われた言葉。団塊の代表的文化人上野千鶴子先生(昭和23年1948生まれ)の本でも読んだのだろうか。 

 十人十色とは聞こえがいいものの、お互いが干渉しない、無関心といった何も価値がない〈ニヒリズム〉の社会に落ち込んでいったそういうことを佐伯氏は憂いているように感じる。

 そういう社会を準備したこともまた団塊の世代の一つの責任として問われてくるであろう。