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俳句雑誌編集顧問の某日・・・

俳句雑誌編集顧問のブログです。

俳句雑誌編集顧問の某日・・・
昨日、NHK・Eテレ新番組(4月29日スタート)の取材会があって、小社スタッフの三東有紀が取材に出かけた。

 番組は、宇多喜代子氏が、若手のミュージシャン・芸人、アイドルなどを迎えて、全国の若者から投稿された「俳句にしたいエピソード」を皆で完成させるというものらしい。なかに3分間の連続ドラマ「俳句王子への道」などというのもあるらしい。

 すでにして老兵はさるのみの愚老などは、若いタレントの名前などいくら言われてもちんぷんかんぷんだ。俳句王子は秋元龍太郎、王子のライバルは真山明大、王子のマドンナの恋人は柾木玲弥だそうな・・・。

 ともあれ、宇多喜代子氏は「若い人たちのための俳句の窓口になりたい」と抱負を語っておられたという(泣けてきますねェ)。ちなみに4月29日の学習テーマは「定型」。スタジオは「桜」の題詠らしい。

 短歌の方は「短歌de胸キュン」だそうである。比べると「俳句さく咲く!」は少し地味だなあ。若者の胸キュンとはならないのかな~。歌人は左伯裕子氏、近藤芳美に師事し「未来」所属の団塊世代歌人。

 それにしても、今も昔も若者といえば、恋の歌、恋の句とは、これいかに・・・。


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過日、3月19日(月)に八田木枯氏が逝去された(本誌5月号〈4月25日発売〉トピックスに訃報記事)。

 送られてきた「鏡」(編集発行人・寺澤一雄)第4号には、同人だった八田木枯氏の遺作「幕下ろす」14句が掲載されている。同号にはほかにも「八田木枯戦後私史 2」と題した中村裕を聞き手にしたインタビューも掲載されている。私史とはいいながら、俳句史に対する怜悧な、かつ率直な物言いは現俳壇には失われて久しいものだ。当然ながら、八田木枯の歩んできた同時代の有りようも浮き彫りになったもので、以後が聞けないのが残念である。

     寒鮒釣り全生涯の幕下ろす           木枯

 20年前くらい?たしか市ヶ谷から飯田橋の間の土手で、毎年「花筵有情」の看板を掲げて、一日中花見の会をしておられたことがある。参加する人は、夜桜まで、どの時間でも立ち寄ればいいのであった。

 今でも、この季節になると、この会を思い出す。当時、木枯氏は,今は若い人たちが準備をして、場所とりまでしてくれているので助かると仰っていたのを思い出す。その看板は福田葉子さんがいまだにお持ちになっていると先日仰っていた。

 そこでは、多くの俳人の方々にお会いすることができた。三橋敏雄、山本紫黄、松崎豊、大高弘達など鬼籍に入られた方も多い。木枯氏も天上での「花筵有情」をしておられるかもしれない。

 ご冥福を祈る。「鏡」4号より数句。

      インバネス戀のていをんやけどかな     木枯

      鶯もゆめうぐいすのこゑもゆめ

      南無妙法蓮華経鶯の隠れ啼き

      猫に道あり戀に路あり道は狭に

      我を置き去りに我去る墓参かな

      寒鮒を釣れなくも釣る男かな
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五十嵐哲也句集『復興』は、氏の『花柘榴』『花ミモザ』に続く第3句集。

 「あとがき」に、「近々生田神社に/復興を称へて長き御慶かな/の私の句碑が建つ予定、東日本大震災・大津波から早く起ち直って欲しいとの思いをこめて句集名を『復興』とした」とある。

 その名の通り、句集一巻には地震の句が多い。しかし、それは阪神淡路大震災に被災されての地震の句である。さらに特徴的なことといえば、「ミモザ成長」の章立てもあるが、前句集につづきミモザの花明りに包まれている。

さらに本句集の特徴を上げれば、

   身に入むや詠みたる悼句数知れず          哲也

と、詠まれたように、実に多くの追悼句が収められていることだ。

    偲ぶ友みな善人や夕端居

    露の世や長寿夭逝身ほとりに

   余生とは忌日の多し鉦叩

   偲ぶ人増えし八十八夜かな

 など、嘆きは深い。ページを捲るごとに追悼の句が置かれているという態である。あまりの多さにざっと数えてみたら、50句以上もある。

 因みに最初の悼句と最期の悼句は、平成七年の

      悼 川島帰子氏逝去

    惜しまるる余寒余震になじみしに

 と、平成十九年の

      悼 安原春峰氏逝去

    共に老い共に残暑を耐へたるに

 である。五十嵐哲也氏自身も老いを見つめておられる。

 平成十二年には父母も亡くされている。父は言わずと知れた五十嵐播水。

      父逝く

    行く春の雑草園を見ず逝けり

     母死す

    夕顔の終の花見ず逝きにけり

 淡淡と詠まれているが、いずれも切なさがひろがる。

 句集巻頭は「阪神大震災 平成七年~十年」の章である。

 根底には、昨年の東日本大震災に続いている同質の光景が横たわっていたのだろうと思う。にもかかわらず無常観に後退することのない心情がうかがわれる。それが『復興』。

    地震なき地へ高々と鳥帰る

    被災せしことアトリエの黴にまで

    復興に遅速ありけり後の月

    地震より月日転がり極月に

    嘆くより謝すこと多き日記果つ

    芝根付き地震の緑蔭落着きし

    海開須磨に住み古り地震に耐へ

    地震の日は明日三寒の雲厚く(平成十二年)

    地震に耐へ抜きし父母なし寒の月

    

 地震にかかわりのある句をいくつかあげさせていただいたが、最期に、氏の本領である味わい深い句を、多くの句の中から、小生の好みに偏するかも知れないがいくつかを上げておきたい。

    谷越えてみたき余花あり空のあり

    ソーダ水小さき嘘は許されて

    黄は余生励ます色や石蕗日和

    耳遠くなり原爆忌祈るのみ

    天辺は鳥来るところ風五月


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