
山田城の歴史
築城前の山田
当時の山田村(上、中、下、小川、別所)は荘園と寺領が混在する地域だった。荘園としては、現在の佃付近について、吾妻鏡で源頼朝が女宮に供している記録が残っている。
山田城築城
山田の地は亀岡街道と小野原街道に通ずる交通の要所であった。元弘1年(1331年)に山田中村の西部、葛上(小字)に摂津守護・赤松則祐が山城を築いたとされるが、文書等の証拠は残っていない。
山田城と香西玄蕃
山田城が記録に残っているのは、応仁年間(1467~1469年)、細川氏の家臣である香西玄蕃が山田中村に一城を構え、圓照寺等の寺領を横奪し、伽藍を焼いたというものである。香西玄蕃については今のところ資料がない。細川四天王と言われた香西元資と関連があると推測される。
この頃の山田城には13の支城があったとされる。
文亀3年(1503年)には香西玄蕃の任地替えに伴い、山城を取り壊す。
その後の山田
天文2年(1533年)、摂津守護細川晴元方の薬師寺国長によって山田市場が焼き払われる。
永禄2年(1559年)、永安寺第31代法忍(竹中家嫡男善祐)によって山田城跡に紫雲寺が再建される。
摂津国はその後、三好方を通して、荒木村重の統治下となる。織田方についた荒木村重であったが、天正6年(1578年)に謀反を起こし、討伐される。
山田城の概要
山田城は、現在の大阪府吹田市山田東二丁目、吹田市山田西二丁目にあったとされる日本の城。
元弘年間(1331年~1334年)に摂津守護であった赤松則祐によって築城されたとされる。
現在、遺構はなく、城跡と考えられる地域は府道2号線(旧大阪中央環状線)によって東西に分断されている。