Anonymous Days

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とある土地の、とある学校に通う、とある学生の、自らの思考を貫く羅針盤

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 「血筋」という言葉があります。この言葉を聞いて、人はどのような

イメージを膨らませるでしょうか。一般的な意味に於いては、先祖代々

の血のつながりであるとか、または、身体の血のめぐりそのものを指す

と言えます。


 ここで触れてみたいのは、前者における意味です。現代の日本におい

ては、近年は格差の広がりによって、今後、階級が再生産されていく、

といった論調が主流のようですが、厳密に言えば、他の国の一部に見ら

れるような顕著な階級社会は存在しません。 学校に於いても、社会に

於いても、人となりを見ただけでは、その人物の来歴というのはわから

ない場合があります。そうした理解を助けるのが、「記号」の存在なの

ですが、自らの言葉で語らなくとも、「血筋」が表出してしまうことがあり

ます。


 先日、とある会員制の飲食店でとある方と会席をともにする機会があり

ました。その方は、長年営業畑を歩まれて、現在は国内はもとより、諸

外国にも多くの取引先を持つメーカーの経営者の方なのですが、その

方が、お店の店員の女性がテーブルにオーダーを運んできたとき、こう

切り出しました。


「貴方は中国の東北地区の出身ですか?」


 その店員の女性は、一瞬、戸惑ったような表情を見せましたが、すぐに、

照れ笑いを隠さずに「はい、そうです」と続けました。


 とは言っても、この時が経営者の方がこの女性を見た最初だったわけ

ではなく、その前に、オーダーを取りに来た時に一度は言葉を交わして

います。しかし、逆に言えば、その一度だけでこの女性の来歴を見抜いた、

ということになります。


「私、お客さんからそんなこと言われたのは初めてです。でも、どうして

わかったんですか?」と、女性は不思議そうにしていました。


 すると、経営者の方は「顔立ちが、私がよく訪れる中国の女性と、目元や

眉の形などが、とてもよく似ていましたからね。それに、日本語がとてもお

上手でしたので」と言葉を返しました。


 この方がおっしゃるには、中国の東北部は、上海などの南西部とは異

なり、日本や朝鮮などの文化的な影響を色濃く受けた土地柄で、言語の

面に於いても、日本語など他言語の影響を強く受けているということです。

ということは、日本語を習得しやすい民族的な土壌がある、と言えるの

でしょう。


 この女性は、非常に流暢な日本語を話しており、あまり外国の方と関

わりのない私が見れば、言われてみないと分からないような語り口でした。

しかし、分かる人が見れば分かるということでしょうか、顔という身体の部分

と、語り口という言語そのものの部分で、「血筋」が語られていたのです。


 他方、上海などの土地の方だと、たとえビジネスの現場で日本語で

コミュニケーションを取っていても、なかなかネイティブ並みに話すのは

難しく、言語の壁は、「血筋」と相まって、やはり存在するものだということ

です。


 こうしたエピソードを省みると、固有名詞で語られる「記号」を語らずとも、

それ以外の部分で表出する「血筋」などの要素を重ね合わせることで、

「記号」として語られる領域は理解できるということが言えるのだと思い

ます。この経営者の方は、長年、さまざまな土地のさまざまな人とビジネス

の現場で対話を繰り返すことで、こうした「記号」の部分に頼らずとも、本質

を見極める力を磨き、結果的に、経営者としても手腕を発揮することができ

たのでしょう。


 「血筋」とは、「記号」を介さずに、自らの存在を語るひとつの手段である。

このように言えるのだと私は考えます。


 

 昨日、テレビでワイドショーを見ていたら、とある女優さんと、とあるミュージシャンとの電撃結婚のニュースが報じられていました。このミュージシャンはギタリストということで、いったいこの女優さんは、この男性のどこに惹かれたのでしょうか。お互いに心を通わせた領域に関しては、それは当人同士のみぞ知る部分だとは思いますけど、それ以外の、もっと表面的な部分に興味が湧きます。


 例えば、ギタリストの特徴的な身体の動きといえば、それは「指先の動き」に集約されると思います。その指先から音楽が紡ぎだされる訳ですから、音楽に心惹かれたとしたら、当然、「指先の動き」に自ずと心惹かれるのでしょう。段階的に捉えれば、視覚で得た感覚を聴覚へとつなげていく作業だと言えます。この作業は、視覚的な刺激に敏感な現代人にとっては受け入れやすいことです。


 しかし、その逆の、聴覚から視覚へとつなげていく作業はと言うとどうでしょうか。先週、学校の授業で、自分の書いた文章を他の学生さんの前で読み上げる、という内容がありました。そこで改めて感じたことなんですが、視覚から聴覚へとつなげていく作業に比べて、その逆ははるかに難しいということです。


 そこに於いては、お互いの間に言葉の共通認識がないと理解に支障をきたします。耳で聞いた言葉を音声として受け入れても、それを表記として言語化できないと、当然、理解には至りません。そんな言葉が文中に何度も出てきたら、それはもう、意味を汲んだりはできないでしょう。


 ただ、この問題は相互の共通認識の欠如だけには留まらないと思います。例えば、テレビを見ていると、普通に音声を聞いてるだけで理解できるような部分にも、必要以上に字幕、いわゆるテロップを画面上に被せることによってその意味を強調しようとしますよね。それは理解を助けている、といえば聞こえはいいですけど、聴覚から視覚へと感覚をつなげていく作業のトレーニングの場を、私たちから奪っている、とも言えるんですね。これは大きな問題であるといえるのではないでしょうか。


 実際、こうした機会が奪われている現状が、耳から聞いたことを目で思い浮かべられることを難しくしていると、この授業でほかの学生さんの反応を見て感じました。教育現場においては、この聴覚から視覚へとつなぐ感覚を鍛えるトレーニングとして、講師の方の話す内容を耳で聞いてメモを取るなどといったことが考えられますが、これをできる学生さんがどの程度いるでしょうか。できる人は小学生でも驚くほどこうした能力に長けています。その一方、できない人は大学生や社会人になってもさっぱりできません。 そうした現状を踏まえると、私がしようとしている試みも少しは意味を持ちうるのかもしれません。

「とある土地の、とある学校に通う、とある学生の、自らの思考を貫く

羅針盤」


 この序文を掲げたのには理由があります。私たちは、無数の情報の洪水に飲み込まれながらも、何とかやり過ごすことで日々を過ごしています。そこで、物事を判断するのに用いられる基準、それは、社会における共通言語として機能する「記号」という存在です。「東京」「大阪」といった地名を表す記号、そして「東京大学」「京都大学」といった学校名を表す記号、さらには、もっと端的な個人名を表す記号というもの……。私たちの認識は、この「記号」を巡るコミュニケーションを通して形作られています。そして、この認識の形は意識するにせよしないにせよ、個人のなかに、社会のなかに、段階的に集積されていきます。


 しかし、この「記号」を介在としないコミュニケーションを図ろうとしたら、そこにはどのような事態が起こるでしょうか。そこでは、その「記号」を口に出すことで簡略化してきた意思の疎通に支障が生じます。ただ、「記号」を提示することで完結していたコミュニケーションは、暗黙の了解のもとに済ませていた事柄を、「記号」という万能薬に頼ることができず、新たな説明が求められてきます。その作業は、徹底的な効率化を、時短社会の名のもとに推し進める現代社会においては、時代に逆行するような動きではあります。


 とはいえ、そのことは、従来にはない異なった認識の可能性を秘めています。万能薬たる「記号」を奪われた私たちは、その代わりに語られる言説を通して、「記号」に匹敵する意味内容を汲み取ろうともがき始めます。そして、試行錯誤の末、その意味内容を掴んだ私たちは、それらと従来の「記号」とを等号で結びつけようとする際、はじめてそこに隠された「記号」の表す内容の、次なる段階に触れることができます。それは、「記号」万能時代の先に見える、まったく新しい世界観であると言えるでしょう。


 こうした考えをもとに、私は、都市であるとか集落であるとかの土地という、地域性を表す「記号」、どのような学校で何を学んでいるかという「記号」、そして、社会に於いて、先ず真っ先に説明が求められる、個人を表す氏名という「記号」、語り手の姿を偶像化する、この三つの「記号」をあえて隠蔽することにより、「記号」のもつ限定性にとらわれない言説を、この場に於いて展開していきます。この試みが、次なる時代の世界観を切り開き、新たな地平に赴く第一歩であるという思いを自らの心に刻んで。


尾瀬真樹