小松城築城

天正4年「1576」小松城が築城され、若林長門守、村上義明、丹羽長重を経て、慶長5年前田利長公が城主となる。

 

小松城には外堀があり、今は九龍橋と呼んでいるが、当時は30m~40m級の外堀であった。

九龍橋のあった川は、現在の梯川がその当時は、3本に分かれていて、その一本が街中を通っていた。現在でいう京町と西町の間にその川が流れており、その川から小松城側が小松、その川から南側に本折城があり、本折と呼ばれていた。

 

浅井畷の戦い

慶長5年前田利長のころ、「1600」9月、関ケ原の戦い直前に小松城を落とそうとした前田軍が、丹羽長重の攻防により落とすことができず、命からがら金沢城へ帰ることになった。

その戦いで、城内であった浜田・小馬出の人々も血を流したのは言うまでもなく、まさか丹羽軍と前田軍が戦いをするとは思っていなかった。

関ケ原の西軍敗北により、小松城城主丹羽長重の人質に利常が差し出された。
当時利常は6歳くらいと言われてる。

利常は小松城の二の丸で人質とされており、当時人質とはいえ長重はわが子のように勉学を教え長重自ら梨を剥き与え昔の話をしていた。

 

利常の嫁・珠姫

珠姫は、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の次女として生まれ子々姫と名付けられていたが、3歳のときに政略結婚で、前田家に嫁ぐことになり、珠姫と名付けられた。

西軍が敗北し、利長の生母芳春院を人質に差し出され、代わりに珠姫が嫁ぐことになる。

慶長5年「1600」に利常と結納をかわし、翌年慶長6年「1601」に江戸から金沢に入って結婚する。
結納を交わしたときは先にもある通り、利常は人質として小松城の中だった。

利常と珠姫は政略結婚とはいえ、すごく仲がよく珠姫が15歳のときに長女を出産している。その後、長女を含め5人の娘、3人の息子の8人を、僅か9年間で授かることになる。

子供の数でもわかるが、珠姫は利常が参勤交代で江戸へ出かけてるとき、早く加賀へ帰してほしいとの内容を認めた手紙を、父秀忠宛てに送っている。

その手紙は現存しているそうで、子供の数でもわかる通り、二人は非常に仲のいい夫婦だったということが伺える。

しかし、1622年5女の夏姫を出産した直後に、乳母が幕府の情報が筒抜けになると思い珠姫を隔離してしまう。利常に会えなくなった珠姫は、日に日に体調が悪くなり24歳で息を引き取ってしまう。衰弱死と言われている。
危篤状態になった段階で、初めてそのことを知らされた利常は強引に珠姫の元へいき、すでに多くを語れずにいた様だが、その遺言から全てを悟り、即刻この乳母を下手人として捕らえ、怒りに震えてこの乳母を処刑した。それもただの処刑ではなく、蛇責めにして処刑されたという逸話がある。

その後、天徳院の贈り名を賜り、利常が手厚く葬った。

現在も金沢の野田山で静かに眠っている。

珠姫が居なくなり、その後世に言う「バカ殿」を演じ加賀120石を守り抜いた。

 

小松城取り壊し

元和元年「1615」一国一城令により廃城になり、1639年に隠居城の目的で利常により小松城の再建をし、1640年に入城した。完成した城域は金沢城の二倍の規模を誇った。

本丸には天守台が築かれ、天守の代用として御三階櫓が築かれた。広大な水堀に浮かぶ姿から浮き城の別名を持つ、難攻不落の実戦を想定した要塞であった。

その後、1658年10月12日に脳溢血で城内で死去した後、主に二の丸の建物を壊して金沢城へ運んで、小松城が残った。多くの藩士が金沢へ移ったことは、町の規模を一気に縮小させ、町の衰退に向かった。19年という短い城下町だった。

その後、明治5年1872年、城の取り壊し、堀の埋め立てが行われ建物は壊されたり、移築されたり建具などは民間に払い下げされた。

 

 

小松城内の二の丸にあった菟橋神社を1651年に浜田庄の神名宮社地に新たに社殿を造営して還座された。1652年に利常が小松城の守護神と定め、本神輿各種神具等を寄付された。それ以来、春季祭礼には小松城内にて神渡しをし、神輿は小松城二の丸前からの出発で始まる。

菟橋神社の移転は、小松城二の丸にあると城の中に民が入れずお参りが出来ないため、城の外である浜田の庄に神社を移した。

利常は隠居の伴い、小松城の戦いで敗れた人たちや、浅井畷の戦い、珠姫の魂を鎮めるため神社を拡大し神具を収め、祭りとした。

そのため、祭り本来の名前はついてなく、あえて利常は祭りの名前をつけなかった。利常の死後お旅祭りという名がついた。

 

菟橋神社は争いを鎮める神であり、また縁結びの神であり、各地から旅をして参拝に訪れていた。菟橋神社には、天神地祇神霊社・荒御神社も存在している。

菟橋神社は元来、川の向こうの浮島に鎮座しており、参拝者は弁当を作り一日旅をするような格好で参拝に向かっていた。

 

 

 

戦国時代に生を受け変えるに変えれない運命

二世たちの定めか。

お旅祭り、西瓜祭り、利長、利常、珠姫のことを思い出してもらえれば幸いです。

利常は鷹匠町にさいきょうをお願いしたときに、西の神、東の神に敬意を祓うことを伝えた。西の神は西軍、東の神は東軍の意味。

 

 

あとがき

利常が小松に隠居城を構えた理由のひとつとして、越前松平家への牽制ということが考えられえる。小松城は別名浮き城と呼ばれており難攻不落の城ということで、いざ戦となったときの砦として利常は再建をしたかったのかもしれない。

幼少期に人質として小松城に囚われてたこともあり、なんら小松城に縁があったのかもしれません。

利常は小松城に入城してから、菟橋神社を手厚く建立し、神具などの寄付を行ったと古い文献に書いてある通り、何らかの意図があったのではと考えるが、そもそも「祭り」というものは感謝・祈り・慰霊のための祭祀であり、それを踏まえて考えると一向一揆や浅井畷の戦いで死んでいった人たちの慰霊のために菟橋神社を建立し、毎年決まった日時に祭礼を行ったのかもしれません。

ご老輩などからは、「昔のお旅祭りは派手なものではなかった」という言葉もあるくらいなので、慰霊のための祭祀だったのでしょう。

利常は熱心な信仰者だったと聞くので、そういった意図があってもおかしくはなく、祭礼の際に鷹匠町の人達にさいきょうをお願いするときに、西の神・東の神に敬意を祓うことを忘れず・・・と伝えたという話があるのですが、西の神とは「西軍」であり、東の神とは「東軍」であり、戦で死んでいった人達の慰霊の意味も込められていたのかもしれません。

情に厚かったという利常。戦国時代に生を受けて変えるに変えれない運命・・・

お旅祭りや西瓜祭りの祭礼の際には、利長や利常、そして戦で亡くなった人達のことを思い出してもらえれば幸いです。