妙法蓮華経化城諭品第七(三百九頁)

『無明より老死に至るまで 

皆生縁にしたがいて有り

是の如きの衆の過患

汝等應當に知るべしと

是の法を宣暢《広く説きのべる》たまう時

六百萬億亥

諸苦の際を盡すことを得て

皆阿羅漢と成る』



生死輪廻を強制されるこの世界に生まれて来るが故に、

老死の強制を受けるもである。

この世界に生れると云う事を強制される理由は、

自分の煩悩無明を根拠として行われた善悪の行いの評価を基準にして、

個人的な生活の更新として無限に生れ変りの繰り返しを強制する因果の法則により、

自分が作った生縁を、三界六道の中の果報としているのである。

三界六道の中に於ける生存の強制から解脱して、

不死安楽の資格を得た聖者が阿羅漢であり、

彼岸の涅槃界に対しての愛着すら離れた自在を求めて修行精進するのが菩薩であり、

法界の中の一切の束縛を離れて[法界建立者]としての資格が完成したもの鎌足如来仏である。

この世界に生まれて来なければ、

老死を強制される事もないと云うになるのであるが、

生を消滅してしまったのでは、自分としての存在もしてしまう事になる。

自分としての存在がなくなってしまったのでは無意味であると考える為に、

自分の存在が無になるよるは、

未だ、

例え苦労があっても自分としての存在があった方がましと、

自分に執着して生老病死を強制される存在に逆戻りするのである。

この点についての道理を正しく理解していたい為に、

自分を捨てれば生死輪廻から解脱出来ると説く、

苦集滅道の教えが信じれないのである。

自分を捨てり事によって自分の安全を得ると云うこの様な教えを理解する為には、

前以って個人的な生存の更新としての生死輪廻が善悪の因果応報として実在する事を学んで、

常に相続根拠が不滅の存在として残り、

仏性アラーヤと名づけられているこの不滅の根拠が残っている限り死が訪れても自分としての存在が消滅するものでは無い事を認識しておく必要がある。

そして、

この様な自分の存在を支えている相続根拠としての本来の自分が存在する事を悟る事が出来れば、

この世界の中の存在として因果の約束に強制されて生れると云う現象結果から自分が離れても、

本来の自分としての存在が消滅せず不滅の存在として残るものである事が理解出来るのである。