対立が語られる時代に、生活者の言葉はどこへ行ったのか
ニュースを眺めていると、世界はいつも怒っているように見える。
政治も国際情勢も、語られる言葉は強く、速く、断定的だ。
誰が正しいのか、誰が間違っているのか。
勝つのはどちらか、負けるのは誰か。
言葉はいつの間にか、考えるための道具ではなく、戦うための武器になっている。
だが、私たちの生活は本当に、あの言葉たちと同じ速度で進んでいるのだろうか。
朝、いつもの道を歩き、買い物をし、家族や知人の体調を気にかけ、
今日一日を無事に終えられるかを静かに考える。
多くの人の一日は、対立ではなく、調整と配慮で成り立っている。
ニュースの中では「国」が主語になることが多い。
だが生活の現場では、「私たち」が主語だ。
国同士が緊張していても、隣人との関係は続く。
政治が混乱していても、夕食は作られ、ゴミは出され、誰かの誕生日は祝われる。
その現実の言葉は、強く叫ばない分、可視化されにくい。
強い言葉は目立つ。
だが、目立つことと重要であることは、必ずしも一致しない。
声を荒げない人、結論を急がない人、簡単に敵味方を分けない人たちは、
発言しないのではなく、慎重に考えているだけかもしれない。
生活者の言葉は、たいてい未完成だ。
迷いがあり、揺れがあり、時には矛盾も含んでいる。
だからこそ、見出しにはなりにくい。
しかしその未完成さこそが、人が現実を生きている証でもある。
対立が消えることはないだろう。
だが、対立だけが世界のすべてでもない。
静かな言葉は、相手を打ち負かす力は持たない代わりに、
状況を複雑なまま受け止める余白をつくる。
白か黒かではなく、その間にある多くの色を残す。
今、必要なのは、正しい言葉よりも、
生活の温度を失わない言葉なのかもしれない。
誰かを論破するためではなく、
「自分はこう感じている」と差し出すための言葉。
生活者の言葉は、消えたのではない。
ただ、大きな音にかき消されているだけだ。
そして今日もどこかで、声を荒げることなく、
世界を観察し、考え続けている人たちがいる。
その沈黙は、無関心ではない。
むしろ、世界を簡単に割り切らないという、
ひとつの誠実さなのだと思う。
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