私は,この風格ある佇まいの家を支えて半世紀を迎えた。
私を中心に,四方に部屋が分かれ,襖や障子を開け放てば,家中隅々まで見渡せる。
かつて,囲炉裏の煙に燻され,ススで真黒になってしまった私は,毎朝,せっせとツルバアやシゲさんが,から拭きしてくれるお陰で,艶のある肌に生まれ変わった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230608/10/onjb/e8/d4/j/o1280072015295705493.jpg?caw=800)
来訪者が,私の姿を見て讃辞の声をあげると,シゲジイやカズさんは,まんざらでもなさそうな笑みを浮かべる。
シゲジイは,当年とって七六歳,妻のツルバアは七三歳,息子のカズさんと嫁のシゲさんは,同い年の五〇歳,孫の正一は二六歳,幸司は,二四歳だ。
この家は,長男のカズさんの誕生した年,シゲジイが分家して建てたものだ。
跡継ぎの誕生と新築祝いを兼ねたお祝いが,夜を徹して行われた時,私は最高の気分を味わい,カズさんとの絆は,ぐっと深まった。
そして,長い年月をかけて,私はシゲジイやツルバア,カズさんやシゲさんに可愛がられ,不動の地位を築くことが出来た。
今日まで心豊かな暮らしを満喫していた最中に,突如終焉の波が押し寄せてきた。
極最近のことだ。
正一がこの家を新しく建て替える,と言いだしたのだ。
戦前戦中戦後を通し,体を張ってこの家を支えてきた私の苦労を,正一は考えたことがあるだろうか。
古いものの価値については,どう思っているのだろう。
小さい時から,正一や幸司に付き合ってきたが,彼らには兎に角,手を焼いてきた。
私が抵抗できないことをいいことに,二人は,鉛筆で落書きしたり,クレヨンで絵を描いたりして,やりたい放題であった。
正一には,強烈な記憶がある。
うつろな目で,夜中に近付いて来て,私の体に触れるや,生温かいものを放出したのだ。
あの時の惨めさは,例えようもない。
翌日,シゲさんが,びしょ濡れになった私を綺麗にしてくれた時,生き返った気がしたが,あの晩のことは,決して忘れることが出来ない。
あの時以来,正一が私に近付いてくると,脳裏に一抹の不安がよぎる。
幸司には,戦慄が走る思いをしたことがある。
小学校の夏休みの宿題だと言って,幸司は小刀で何かを掘っていたが,何を思ったのか突然,私の体に彫刻刀を突き付けてきたのだ。
「幸司! 何をしよるか」
「え! あ,ここにバラの花を彫ろうと思って」
「何を言っているか! お前は,大事な大黒柱に,傷を付けていいと思っているのか」
野良仕事から帰ったばかりの,シゲジイが凄い剣幕で怒号を放った。
その声の大きさに私は驚いたが,ツルバアが血相を変えて駆け付けるほど,迫力があった。
「その小刀で,自分の手にバラの花を彫ってみなさい。どうなるか」
「もう許してやって。幸司も悪かった,と反省していますから。そうでしょう。幸司」
ツルバアが,うな垂れる幸司を,優しく抱きしめ,諭すように言う。
見る間に,幸司の涙はあふれ出して,土間に滲む。
シゲジイは,幸司をツルバアから引き離し,目の前に立たせた。
「もうやめてあげて」
「お前は,黙っておきなさい」
シゲジイは,耳を貸そうともしない。
「悪かったと思うか」
幸司は,肩を震わせてしゃくりあげながら頷く。
「よし,この大黒柱に謝りなさい」
「ごめんなさい。もう決してしません」
真顔で接するシゲジイに,畏怖の念を抱く幸司を,私は不憫に思い許した。
「しっかり謝ることが出来たね。えらいよ。もう泣かなくても良いよ」
私の前で,深々と頭を下げた幸司の姿も,決して忘れることはない。
そんな出来事もあって,私は威厳を保ち続けていたのだった。
しかし,年月というのは,無情なものだ。
正一は,今付き合っている女性と,新居での生活設計を夢見ている。
この家を跡形なく壊して,建て替えると言い始めたのだ。
家族の思い出や楽しさがいっぱい詰まったこの家が大好きだ,と口にしていた正一の言葉を聞かなくなって久しいが,人の心はそんなに簡単に変わるものだろうか。
彼女に,この家の温かさや安らぎ,住み心地の良さを語ったことはあるのだろうか。
家族の団らんの歴史を,間近で見てきた私は,それが知りたい。
「兄貴,おじいちゃんは,この家の新築と親父さんの誕生を機に,心機一転頑張って,生活基盤を確かなものにしたんだよね。それから半世紀を経て,兄貴が結婚を機に,新築して心機一転,仕事も家庭生活にも励んで,生活基盤を築くというのは,奇妙な巡り合わせのような気がするよ。いいじゃない」
「幸司が賛成してくれるのは,嬉しいよ。でも……」
「でもって? どうしたの」
「新築の話をしてから,おじいちゃん,何だか寂しそうな気がしないか」
「おじいちゃん,反対しているのかなあ」
「壊すとなると寂しいのではないのかな。特に,この大黒柱には皆の愛情が籠もっているだろ。この柱は,親父さんと同い年だし,おじいちゃんそのものの様な気がする。威厳を傷付けることになるようで,踏み切れないというのが,正直な気持ちだよ」
「そうだね。壊すとなると僕だって寂しい」
「幸司,子どもの頃,ここに竈があって,その前で喧嘩した時のこと,覚えているか」
私もはっきり覚えている。
あれは確か,正一が小学四年,幸司が二年生の時だった。
学校を引けて帰るなり,幸司は戸棚のおやつのドーナツを,正一の分も食べたことがあった。
「おい,幸司,今日のおやつはどこにある」
「知らないよ。ドーナツなんか見てないし,食べてないよ」
「ドーナツだったのか。お前,今日のおやつがドーナツだって,なぜ知っているのだ。今日は,おやつを見ていないのだろ」
正一が,幸司を土間に引きずり下ろして,取っ組み合いの喧嘩を始めた時,丁度シゲジイが帰ってきたのだ。
「幸司がいけないんだ。僕のおやつを一人で食べてしまって」
「お兄ちゃんだって,僕のリンゴ半分食べたことがあるじゃないか」
「喧嘩は勝っても負けてもいいことはない。それでも気が収まらないというのなら,これで,死に物狂いでやれ」
シゲジイは,竈の傍のずっしり重みのある薪を渡して,二人を凝視した。
「やってみよ」
恐ろしさのあまり,二人から血の気が引いていくのが,見て取れた。
肝が据わった子育てをするシゲジイに,私は明治生まれの真骨頂を度々見る。
「正一も幸司も分別がつくから安心した。兄弟は,助け合うものだ。自分だけ良かったら良いという考えはいけない。一方,許す心も大事だ。正一は,弟を可愛がる。幸司は,お兄ちゃんを見習いなさい。いいな」
私は当時を回想しながら,二人の会話に耳を澄ました。
「あの時は,本当に怖かったな」
「僕も生きた心地がしなかったよ」
「厳しかったけど,愛情の籠もったしつけだったよね。お陰で,これまで人から後ろ指刺されるようなことは,しないですんだよ」
「兄貴と同じ。おじいちゃんのしつけは,今の社会では通用しないけど,威厳があったよね。今でも,言葉には重みがあるし」
「明日,彼女にこれまで家族が育んできた我が家の歴史を語ることにするよ」
「兄貴,それがいいよ」
一難去って,私は今,心の安らぎを得て,威風堂々新居を支えることが出来ている。
なぜ,私が居心地良くいられるかって?
それは,正一がシゲジイに家の建て替えについて相談した時の会話に注目して欲しい。
「この家は頑丈だから,新築ではなく,大事な箇所を残して,使い勝手のいい住まいに改築したいと思うけど,いいかな。特に,大黒柱には小さい頃からの思いがいっぱい詰まっているので,残したいんだ」
「彼女の意見も,ちゃんと聴いたのか」
「実は,彼女が風格あるこの家が好きだから,少なくても骨格だけは残して欲しい,そう言うので,彼女のためでもあるんだ」
「そうか。彼女はこの家が好きだと言っているのか。いい嫁さんを見付けたな。どうするかは,お前たちが決めればいいことだよ」
こうして私は,再び命が吹き込まれ,親子三代に亘って可愛がってもらっている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230608/10/onjb/b6/e4/j/o1280072015295704224.jpg?caw=800)