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 新作『陽あればこそ』が、電子書籍と ペーパーバックで11月11日からアマゾンで販売開始されました。

 

 主人公の林田遼太は、弁護士として事務所を構え、四人の所員と伴侶に支えられ、順調な事務所経営を行っている。

 そんな主人公の心には、長い間潜む大きな存在があり、葛藤が続いていた。

 

 東日本大震災が発生した年、遼太は三七年ぶりに被災のあった県に住んでいるかつての恋人に電話をかけた。

 その時、相手の対応にひっかかるものを感じながら、再び交流が途絶えた。

 

 話は、遼太の学生時代に遡り、展開されていくが、意外な結末を迎えることになる。

 

 半世紀にわたり、陽光と陽絶が交錯する作品で、興味がそそられます。是非読んで欲しく、紹介させていただきました。

 

 

      

 

                   

 

         

 

 私は,この風格ある佇まいの家を支えて半世紀を迎えた。

 私を中心に,四方に部屋が分かれ,襖や障子を開け放てば,家中隅々まで見渡せる。

 かつて,囲炉裏の煙に燻され,ススで真黒になってしまった私は,毎朝,せっせとツルバアやシゲさんが,から拭きしてくれるお陰で,艶のある肌に生まれ変わった。

 

     

 

 

 来訪者が,私の姿を見て讃辞の声をあげると,シゲジイやカズさんは,まんざらでもなさそうな笑みを浮かべる。

 シゲジイは,当年とって七六歳,妻のツルバアは七三歳,息子のカズさんと嫁のシゲさんは,同い年の五〇歳,孫の正一は二六歳,幸司は,二四歳だ。

 この家は,長男のカズさんの誕生した年,シゲジイが分家して建てたものだ。

 跡継ぎの誕生と新築祝いを兼ねたお祝いが,夜を徹して行われた時,私は最高の気分を味わい,カズさんとの絆は,ぐっと深まった。

 そして,長い年月をかけて,私はシゲジイやツルバア,カズさんやシゲさんに可愛がられ,不動の地位を築くことが出来た。

今日まで心豊かな暮らしを満喫していた最中に,突如終焉の波が押し寄せてきた。

 極最近のことだ。

 正一がこの家を新しく建て替える,と言いだしたのだ。

 戦前戦中戦後を通し,体を張ってこの家を支えてきた私の苦労を,正一は考えたことがあるだろうか。

 古いものの価値については,どう思っているのだろう。

 小さい時から,正一や幸司に付き合ってきたが,彼らには兎に角,手を焼いてきた。

 私が抵抗できないことをいいことに,二人は,鉛筆で落書きしたり,クレヨンで絵を描いたりして,やりたい放題であった。

 正一には,強烈な記憶がある。

 うつろな目で,夜中に近付いて来て,私の体に触れるや,生温かいものを放出したのだ。

 あの時の惨めさは,例えようもない。

 翌日,シゲさんが,びしょ濡れになった私を綺麗にしてくれた時,生き返った気がしたが,あの晩のことは,決して忘れることが出来ない。

 あの時以来,正一が私に近付いてくると,脳裏に一抹の不安がよぎる。

 幸司には,戦慄が走る思いをしたことがある。

 小学校の夏休みの宿題だと言って,幸司は小刀で何かを掘っていたが,何を思ったのか突然,私の体に彫刻刀を突き付けてきたのだ。

「幸司! 何をしよるか」

「え! あ,ここにバラの花を彫ろうと思って」 

「何を言っているか! お前は,大事な大黒柱に,傷を付けていいと思っているのか」

 野良仕事から帰ったばかりの,シゲジイが凄い剣幕で怒号を放った。

 その声の大きさに私は驚いたが,ツルバアが血相を変えて駆け付けるほど,迫力があった。

「その小刀で,自分の手にバラの花を彫ってみなさい。どうなるか」

「もう許してやって。幸司も悪かった,と反省していますから。そうでしょう。幸司」

 ツルバアが,うな垂れる幸司を,優しく抱きしめ,諭すように言う。

 見る間に,幸司の涙はあふれ出して,土間に滲む。

シゲジイは,幸司をツルバアから引き離し,目の前に立たせた。

「もうやめてあげて」

「お前は,黙っておきなさい」

 シゲジイは,耳を貸そうともしない。

「悪かったと思うか」

 幸司は,肩を震わせてしゃくりあげながら頷く。

「よし,この大黒柱に謝りなさい」

「ごめんなさい。もう決してしません」

 真顔で接するシゲジイに,畏怖の念を抱く幸司を,私は不憫に思い許した。

「しっかり謝ることが出来たね。えらいよ。もう泣かなくても良いよ」

 私の前で,深々と頭を下げた幸司の姿も,決して忘れることはない。

 そんな出来事もあって,私は威厳を保ち続けていたのだった。

 しかし,年月というのは,無情なものだ。

 正一は,今付き合っている女性と,新居での生活設計を夢見ている。

 この家を跡形なく壊して,建て替えると言い始めたのだ。

 家族の思い出や楽しさがいっぱい詰まったこの家が大好きだ,と口にしていた正一の言葉を聞かなくなって久しいが,人の心はそんなに簡単に変わるものだろうか。

 彼女に,この家の温かさや安らぎ,住み心地の良さを語ったことはあるのだろうか。

 家族の団らんの歴史を,間近で見てきた私は,それが知りたい。

「兄貴,おじいちゃんは,この家の新築と親父さんの誕生を機に,心機一転頑張って,生活基盤を確かなものにしたんだよね。それから半世紀を経て,兄貴が結婚を機に,新築して心機一転,仕事も家庭生活にも励んで,生活基盤を築くというのは,奇妙な巡り合わせのような気がするよ。いいじゃない」

「幸司が賛成してくれるのは,嬉しいよ。でも……」

「でもって? どうしたの」

「新築の話をしてから,おじいちゃん,何だか寂しそうな気がしないか」

「おじいちゃん,反対しているのかなあ」

「壊すとなると寂しいのではないのかな。特に,この大黒柱には皆の愛情が籠もっているだろ。この柱は,親父さんと同い年だし,おじいちゃんそのものの様な気がする。威厳を傷付けることになるようで,踏み切れないというのが,正直な気持ちだよ」

「そうだね。壊すとなると僕だって寂しい」

「幸司,子どもの頃,ここに竈があって,その前で喧嘩した時のこと,覚えているか」

 私もはっきり覚えている。

 あれは確か,正一が小学四年,幸司が二年生の時だった。

 学校を引けて帰るなり,幸司は戸棚のおやつのドーナツを,正一の分も食べたことがあった。

「おい,幸司,今日のおやつはどこにある」

「知らないよ。ドーナツなんか見てないし,食べてないよ」

「ドーナツだったのか。お前,今日のおやつがドーナツだって,なぜ知っているのだ。今日は,おやつを見ていないのだろ」

正一が,幸司を土間に引きずり下ろして,取っ組み合いの喧嘩を始めた時,丁度シゲジイが帰ってきたのだ。

「幸司がいけないんだ。僕のおやつを一人で食べてしまって」

「お兄ちゃんだって,僕のリンゴ半分食べたことがあるじゃないか」 

「喧嘩は勝っても負けてもいいことはない。それでも気が収まらないというのなら,これで,死に物狂いでやれ」

シゲジイは,竈の傍のずっしり重みのある薪を渡して,二人を凝視した。

「やってみよ」

 恐ろしさのあまり,二人から血の気が引いていくのが,見て取れた。

 肝が据わった子育てをするシゲジイに,私は明治生まれの真骨頂を度々見る。

「正一も幸司も分別がつくから安心した。兄弟は,助け合うものだ。自分だけ良かったら良いという考えはいけない。一方,許す心も大事だ。正一は,弟を可愛がる。幸司は,お兄ちゃんを見習いなさい。いいな」

 私は当時を回想しながら,二人の会話に耳を澄ました。

「あの時は,本当に怖かったな」

「僕も生きた心地がしなかったよ」

「厳しかったけど,愛情の籠もったしつけだったよね。お陰で,これまで人から後ろ指刺されるようなことは,しないですんだよ」

「兄貴と同じ。おじいちゃんのしつけは,今の社会では通用しないけど,威厳があったよね。今でも,言葉には重みがあるし」

「明日,彼女にこれまで家族が育んできた我が家の歴史を語ることにするよ」

「兄貴,それがいいよ」 

 一難去って,私は今,心の安らぎを得て,威風堂々新居を支えることが出来ている。

 なぜ,私が居心地良くいられるかって? 

 それは,正一がシゲジイに家の建て替えについて相談した時の会話に注目して欲しい。

「この家は頑丈だから,新築ではなく,大事な箇所を残して,使い勝手のいい住まいに改築したいと思うけど,いいかな。特に,大黒柱には小さい頃からの思いがいっぱい詰まっているので,残したいんだ」

「彼女の意見も,ちゃんと聴いたのか」

「実は,彼女が風格あるこの家が好きだから,少なくても骨格だけは残して欲しい,そう言うので,彼女のためでもあるんだ」

「そうか。彼女はこの家が好きだと言っているのか。いい嫁さんを見付けたな。どうするかは,お前たちが決めればいいことだよ」

 こうして私は,再び命が吹き込まれ,親子三代に亘って可愛がってもらっている。

 

    

 

 

 

 今日は憲法記念日。

 今日の高知新聞の小社会に俳優の吉永小百合さんとタレントのタモリさんのことが掲載されていましたので,紹介します。

 

 タモリさんが今年を「新しい戦前になるんじゃないですかね」とした発言……吉永さんも元日の本誌で似た発言をしている。作家半藤一利さんの言葉を引いて「ずっと戦後であって欲しい」。まともな国会論議もなく政権が決めた防衛費の増額,敵基地攻撃能力の保有,同世代の2人が図らずも,裏表のような言葉で不穏な時代を危惧したことになる。吉永さんは「怖いのは……皆で考えるんじゃなく,どんどん決めていこうとした動き」とも。集団的自衛権の行使を可能にしたあたりが源流か。近年は,……憲法,憲法,法律の解釈を変更する権力の強引さも目立つ。

 

 

 日本国憲法が施行されて76年になります。

 国民主権,基本的人権の保障,平和主義の三大基本原理である日本国憲法は,世界に誇れる最も優れた憲法です。

 なかでも,9条の戦争放棄の規定によってこの76年間日本は忌まわしい戦争を避けることができました

 ところがここ数年,その日本国憲法の精神が揺れ動いています。

 憲法99条には「天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とあります。

 揺れ動かしているのは,本来,最も尊重しその実行に力を果たすべき政府や国務大臣,国会議員たちです。

 とりわけ,政権与党とそれを補完する政党の政治家達が熱心に改憲を叫んでいます。

 安倍元総理は,戦前に回帰する法案を次々と閣議決定し,強行採決して9条改憲に血眼になっていました。

 今は,その考えを支持する自民党強硬派とそれに便乗する党内勢力や維新の会,国民民主党などが,日本国憲法の柱を倒そうとやっきになっています。

 テレビでは,毎日のようにロシアの侵略によるウクライナの惨劇が映し出されています。

 中国では,台湾の武力攻撃時期を虎視眈々と狙っています。

 そして,北朝鮮では核戦力を増大させ,いつでも攻撃すると威嚇しています。

 さらに,ミャンマーでは軍事政権が多くの民衆の命を奪っていますし,アフガンやシリア,スーダンなどにも平和はありません。

 武力行使による弾圧で,どれだけ多くの人々の命が奪われ,自由や平和が閉ざされ,人権が踏みにじられているのか。

 誰もが生まれながらにして有する権利が,生まれた国が違うと言うだけで剥奪されていいのでしょうか。

 日本も戦争に突入すれば,人権侵害は当然のように起こり得ます。それがどんなに許されない行為であったも,不合理が戦争の正体ですから人権侵害は,避けようもありません。

 戦力を整えなければ,いつ敵が攻撃してくるかもしれない。だから敵の攻撃に備え,準備しておくのだ。そのためには,莫大な軍事費が必要だ。三木政権では,防衛費をGNP1%以内を堅持すると決めていたが,今は情勢が変わったから2%まで引き上げる。防衛費に際限ない戦費支出を念頭に置き,武力行使できる力を備え、戦争も辞さないという日本政府の考えは,正当と言えるのでしょうか。

 危険な国が軍事費を増強させている以上,それに負けるわけにはいかないというは,まさに中国や北朝鮮,ロシアなどと同じように戦争を想定して軍事費を増額する姿勢ですから,何をか言わんやです。

 

 かつての自民党には,良識あるハト派の政治家がいて,タカ派に負けていませんでしたから,軍事費の増大とか武力行使に対しても毅然と対応していました。

  今の政府与党には,使命感を持って国民を幸せにするという明確な理念もビジョンも感じられません。統一教会や金権政治にまみれた政治家が,いくら声高だかに巧言を発しても響きません。

 今こそ,与党に肉薄する健全な野党が育つことが必要です。いつまでも安心して政権の座に居座ることができると,政権与党はあぐらをかいていますから,日本は決して良くはなりません。

 高度経済成長を遂げていた時のようにはいかなくても,技術立国の威厳と誇りを世に示すことができるはずです。

 伝統や自然,人情,加工技術も含めて有り余る日本の良さを世界にアピールし,打って出ることは可能です。

 

 国民の多くは,今憲法を変えなければならないと思ってはいないはずです。防衛費の増額や原子力発電所の増設,カジノ設置なども喫緊の課題だとは考えていないでしょう。それより今やるべきことは沢山あります。多大の税金を手にする政治家なら分るはずです。

 国民が求めていることを政府や政治家は真剣に考えているのでしょうか。少なくてもそれが末端にまで届いてきていません。

 日本の国の輝かしい将来ビジョンや構想が国民に示されること。そして,国会で論戦を繰り広げ,練りに練って国民の支持を得て,それを実行するという正当な手続きを踏んで,取り組んで欲しいものです。

 時の情勢に流され右往左往しながら,明確なビジョンもなく,国会での論戦もなく,国民の支持も得ず,莫大な国家予算を費やして対処するだけの現政権には,未来を見据えた展望が全く見えません。

 与党の補完勢力となっている野党ではなく,与党と真っ向から向かい合い論戦を張れるように,野党第一党の立憲民主党を中心とした政党がもっとしっかりして,国民から期待される政党に育たなければ,日本の地位は低下していくばかりです。

 日本の力を示す政権が誕生しなければ,かつて繁栄した日本の姿は再び見ることができなくなります。

 日本は、唯一の原爆被災国としてその立場を深く認識し,「どんな理由があろうとも戦争では,問題は決して解決しない。人を殺し合えば恨みと憎しみを買うだけで,武力行使は止めどなく続く。国の争奪戦で,勝利を得ても人類に繁栄はなく,国家は疲弊し,世の乱れは止むことはない。今こそ核廃絶と戦力兵器削減に取り組もう」と命がけで世界にアピールし,徹底的に行動に移さなければなりません。

 世界のリーダとして、武力行使を否定し,平和を訴え続ける政権が誕生することを心から期待する次第です。

 それこそが,第二次世界大戦を引き起こした日本の責務であると、私は固く信じます。

 それと同時に,国内では喫緊の課題である少子化対策,エネルギー政策,災害対策,農林業の振興,教育,IT等々併行して進めなければなりません。

 権威を振りかざし,己の利益のみに固執する政治家は,もうこりごりです。常に,頭を低くして,人のために日々命がけで取り組む覚悟をもって,政治に直向きな姿勢を政治家には望む次第です。

 この度,非営利団体「STREET ART LINE PROJECT 実行委員会」の活動を知る機会を得,賛同しましたので,ブログを読んでくださる皆さんに心から感謝しつつ,その取り組みをご紹介させていただきます。

 

 

 STREET ART LINE PROJECTは,点字ブロックが街で不足・不整備状態にある課題に対し,アートの力を取り入れた点字ブロック「STREET ART LINE」を開発して,啓発活動も含め,視覚障がい者が街を楽しむための道をつくりだしていくことをミッションに活動されておられます。

 

 日本社会を見渡すと,目の見えることを前提とした街づくりが行われています。そこで,目が見える人は,何不自由なくどこでも好きな場所に行くことができます。

 ところが,視覚障がい者にとっては,不便なことや困ることが多く見られます。

 視覚障がい者にとっては,点字ブロックが頼りですが,点字ブロックの老朽化や摩耗による剥離があります。

 何より問題なのは,肝心の点字ブロックが敷設されていない道があることです。

 こうした課題に対して,「STREET ART LINE PROJECT 実行委員会」は,点字ブロックの存在意義を再認識するきっかけを提供するために,アートを取り入れた点字ブロック

"STREET ART LINE" を開発して,視覚障がい者の道となる点字ブロックを敷設するという活動をされています。

 

 この取り組みにおける詳しいことは,下記のページをご覧ください。


▼クラウドファンディング(Good Morning)
 https://camp-fire.jp/projects/view/652628

▼イベント実施プレスリリース(PR Times)
  https://camp-fire.jp/projects/view/652628

▼前回実施時の様子:2021年 (Youtube)
 https://youtu.be/Pdd8nex1bj0

 

 

 

  私が特に関心を惹かれたのは,この取り組みが人権侵害に関わっている問題だからです。

 世界人権宣言の第1条に,「すべての人間は,生れながらにして自由であり,かつ,尊厳と権利について平等である」と人権の世界的基準が示されています。

 すべての人が生まれながらに持っている人権を尊ぶことは当然のことですが,得てして私たちは意図しなくても人権侵害をしていることがあります。

 人権侵害をしないためには,無知と偏見をなくして,正しく知ることが大事だと考えます。

 

 障害のある人が,自立した生活を送ろうとするとき,道路や建物,バスの段差など物理的な障壁があります。さらに,各種の資格制度とか,就職試験などの制度的な壁もあります。

 

 

 中でも,障害に対する理解が十分でない人たちの心ない言葉や行動は,障害のある人やその家族にとって,人間としての尊厳を傷つけられますので,大変辛い思いをします。

 高知県が平成24年に実施した「人権に関する県民意識調査」では,「就職機会が少ない」(65.7%),「職場で不利な扱いを受ける」(46.4%),「道路や店舗の利用が不便」(36.6%),「じろじろ見られたり,避けられたりする」(32.3%)とか「アパートへの入居が困難」(25.2%),「結婚に反対される」(24.3%)などの問題があげられています。

  人権侵害の主な事例としては,

a 本人の理解力が不十分なことをいいことに,クレジットカードに名前を使われ,使用された。とか

b 家を借りようとしたが,バリアフリー化について家主から拒否された。というもの

c 健康保険証を使用されて,サラ金から借金され請求がきた。というものや

d 近所の住人の自動車購入で,断りきれずに保証人になったところ,自動車会社から請求がきた。というものもあります。

 そのように,障害を持つ人の弱みに付け込んで傷つける行為などはもっての外です。

 

 障がい者を正しく理解し,優しさや思いやりを持って,行動するという配慮を大事にすることができれば,社会は随分明るくなるはずです。

 

 STREET ART LINE PROJECT実行委員会は,「STREET ART LINEを敷設していくことが,視覚障がい者が ”本当に行きたい場所” にたどり着ける街づくりの実現につながるきっかけになる」と信じて活動を続けられています。

 大変大きな社会貢献をされていますので,みなさまのお力添えをよろしくお願い申しあげます!

 

 

 昨年春に出版された『三十六プラス一』について,まだお読みになられていない方に,是非読んでいただきたく,改めて紹介させていただきます。

 

 この作品は,新採の高校教師が赴任先の学校で,出会った生徒たちに寄り添い係わる中で,信頼関係を構築し,教育に携わる喜びを味わい,新たな展望をみいだしていく自伝的小説です。

 

 担任のなり手がいない訳ありクラスを引き受けた新米教師は,教育現場での理想と現実とのギャップに苦しみもがきながら,自身の人間性の未熟さとも葛藤しつつ,生徒と共に成長していきます。

 

 日常の教育現場を通して,教育者とはどうあるべきかを問いかけた作品でもあります。

 美しいものを見て美しいと感じ,不合理なものには妥協しないという,多感な時期の高校生たちの感性と必死に生きる姿が描かれています。

 彼らはちょっとしたことにも傷ついたり,悩みや苦しみを経験しながら,友情の絆の強さに支えられ成長していきます。

 10代の誰もが経験する,甘い,苦い,酸っぱい,苦しい体験に,担任として自分の心をオープンにして,愛情を注ぎながら教育実践を重ねることで,信頼関係に裏付けられた教育関係は成立します。

 生徒たちの繰り広げる波乱万丈の学園生活の現実に,新米教師が真正面から向き合い,真剣勝負で挑む姿には,若さと情熱が溢れていてわくわくします。

 

 しかし,現実は厳しく,新米教師は教育現場における不合理や矛盾に抗いながらも,厚い壁を突破できず,非力さを痛感し切歯扼腕する姿にも心を打たれます。

 そして,教育への情熱を失いかけ,教師としての矜持を傷つけるような失態をおかし,岐路に直面する新米教師ですが・・・・・・。

 大変な事態が想定される場面で,想像もつかない生徒たちの驚くべき行為が,実に感動的でドラマチックです。

 

 教育とは何か,教育の原点はどこにあるのかを模索し,自らの生き様をさらけ出して,必死に取り組む中で,現実に起こる出来事の中から求める答えが発見できるところに,この作品の面白さがあります。

 

 ー生徒と教師の素晴らしい出会いー

 そのよき出会いは,強い絆で結ばれ,心豊かな人生に繋がる生涯の宝物です。

 私たちの身近なところにも,そうしたよき出会いは,あるかも知れません。

 そうしたことに気付くきっかけになるかも知れません。

 是非,読んでいただきたい作品です。

 

 

『三十六プラス一』221ページ 出版発行 風 詠 社 

 著者 浜 田 幸 作 

 

 

 人種や性別,年齢,障害,LGBTなど,社会の多様性を認め,人を尊重するという人権意識を持つことは,人間として当たり前のことですが,とても重要な意味を持ちます。

「人を大切にする」という人権意識を持つと,身の回りをはじめ,社会に存在する様々な「差別に気付く」ようになります。

 そして,社会の矛盾や不合理に対する問題意識が芽生え,課題解決に向けた方策や取り組みなどに関心を示し,大なり小なり行動が見られるようになります。

 そのような行動や社会からの指摘等によって法制度が整い,私たちの物の見方も変わってきました。

 一方,人権教育の推進によって,受け手に辛い思いをさせる用語が死語となった例が随分見られ,今では学習の場でも使用は避けるようになっています。

 道路には,視覚障害者に誘導音で信号機が青になったことを知らせる音響信号機(視覚障害者用付加装置)が設置されていますが,この信号機にはかつて「盲人用信号」という表示がされていました。

 この「盲人」と言う言葉に,差別的なニュアンスや違和感があるという指摘等があって,そういう声に配慮して,現在は「盲人用信号」という表示のある信号機は,ほとんど見られなくなりました。

 その様に社会全体で,言葉や表示,行動等人権に対する配慮が行われています。

 

 

 2月11~13日に,共同通信社が同性婚を巡る荒井勝喜前首相秘書官の差別発言を受けて,全国緊急電話世論調査を実施しています。

同性婚を認める方がよいとの回答は64・0%で,認めない方がよいの24・9%を大きく上回っています。

 岸田文雄首相の同性婚導入に関する「家族観や価値観,社会が変わってしまう課題だ」との国会答弁について「適切ではない」との答えは57・7%などとなっています。

 このように世論調査では,LGBTなど性的少数者を巡る元首相秘書官と世論の乖離が見えます。同性婚を容認する回答も多数を占めますが,自民党保守系とのずれも大きいものとなっています。

 

 

 この世論調査の結果が社会の常識であるとすれば,政治家の意識は世間の常識と大きくかけ離れているということになります。

 自民党の杉田水脈衆院議員は,LGBTに対し「彼ら彼女らは子供を作らない,つまり『生産性』がないのです」などと持論を展開しています。さらに,性暴力被害者への支援事業をめぐって「女性はいくらでもウソをつける」とか,元TBS記者から性行為を強要されたと訴えているジャーナリスト・伊藤詩織さんについては,「女として落ち度がある」とも言っています。

 このような差別発言を平気で行い,反省をしようともしない国会議員は,過去,現在を問わず取りあげればきりがないほどいます。そんな国会議員一人に対して,年間数億円のお金が税金で使われてています。

 私たちが政治に関心を示し,監視しないと国民の意識と政治家の意識は乖離したままで,国の借金は増え続け,貧富の差も拡大して,将来展望も開けません。

 政治家は襟を正し,率先して人権意識を持ち,国民一人ひとりを大切にする政治を行ってもらいたいものです。

 

 

 

    

 

 

 親の役割の中心は,何と言っても子育てです。

 子育てにおいて,豊かな感性を育むことはとても大事です。

 親の願いや思いが伝わることによって,子どもに豊かな感性が育くまれていきます。

 

 専業農家だった我が家では,祖父母や両親は朝早く起き,日が沈むまで農作業にいそしんでいました。

 父は,朝夕草を刈って牛に与え,牛乳を集荷場に出し,牛の世話や農作業で休みなく働いていました。

 母と祖母は,一緒に食事の準備や農作業に精出していました。

 祖父は,猟で足を怪我するまでは、一家の中心でしたが,片足が不自由になってからは,四人の孫の世話をしながら,収穫物の管理や機械修理などを含め,雑事一切を行っていました。

 親たちの懸命に働く姿を見て育ったことで,労働の喜びや大変さが伝わってきました。

 

 今の子ども達は,親の働く姿を目の当たりにすることはありません。

 そのため,親が汗水垂らして得たお金の大切さについての理解は,十分とは言えません。

 子どもに手伝いをさせることも行われなくなりました。 

 欲しがるものを買い与えたり,求めるままに小遣いを渡す親もいます。

 お金が足りなくなると,親に言えば簡単に手に入るとなれば,お金の使いみちや使い方など,金銭感覚がおかしくなっても不思議ではありません

 小さい時から,働くことの意味や遣り甲斐,お金の大切さなど,親の願いや思いを込めて伝えることによって,意識付けさせることには大きな意義があります。

 

 そこで,子育て時において効果の大きい内容を見てみましょう。

 一つは,役割分担を決めて,子どもに10分以上の仕事を任す。そうすることで,自分が必要とされている意識ややる気を育てる。

 例えば,玄関の掃除,洗濯物の取り入れやたたんでタンスへ入れる,食事の手伝い,配膳や食器の片付け,新聞や手紙の受け取り,おつかい,ゴミ出し等々の手伝いを任せることで,帰属性や責任感,主体性,充実感等が養われ,労働に対する理解も深まります。

 子どもの行為を見て,親から感謝の言葉を受けると,子どもは一層嬉しい気持ちになります。

 二つは,生活習慣を確立させるには,「つ」のつく間(1つ~9つ)にさせることが大事と言われています。

 特に,4H(早寝,早起き,はみがき,排便)については,日常生活で徹底することで,習慣付けされます。

 三つは,人を大切にする意識を育てるということです。

 子どもの優しい心を大事にして,人権意識を培い,豊かな感性を育てることは,心の健康を養うことになりますので「よりよい生き方」の礎が築かれます。

 

 荒廃した社会の展望を切り開くのは,未来を背負う子どもたちですから,国は,子ども子育て支援にお金をケチらず,もっと積極的に子育てに係る費用や教育にお金をかけなければいけません。

 

 一方で,家庭における親の役割は大切です。

 一度しかない子育て期に,親が子どもに寄り添い,共に楽しみながら子どもの成長を見守り,大きな幸せをつかんでもらいたいと願う次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子どもを他人と比較して育てると嫉妬心や劣等感を抱かせて,何も良いことはありません

 トシオ君が喜び勇んで帰ると,お母さんに80点のテストを渡した。

 その時,お母さんは「よく頑張ったね」と褒めてやれば良かったのですが,その前に「ヨシオ君は何点だったの」と聞いた。

「ヨシオ君は95点」

「え!それじゃコウセイ君は?」

「コウセイ君は90点」

「あんたより下の人はいたの?」

「いたよ。ヒロ君もタカオ君も70点だよ」

  トシオ君はここぞとばかり得意げに伝えた。

「お兄ちゃんなんかは,いつも100点だったのよ。ヨシオ君やコウセイ君に負けないように,あんたも頑張りなさいよ」

 

 

 せっかく褒めてもらえると思っていたのが,当て外れになってしまった。

 それでも,親に褒めてもらいたいと思って,競争心を抱き頑張ります。

 ところが,いくら頑張ってもかなわないことが分かると,お母さんに「お前はだめだね」と言われ,嫌われるのではないかと思い,ヨシオ君やコウセイ君より低い点は見せなくなりました。

 そこには,お母さんが悲しむからと言うトシオ君の優しい心遣いもあったのですが,何より,比較されるのではなく,自分を認めてもらいたい,自分の人権を大切にしてもらいたいという強い気持ちが働いていました。

 母親は,トシオ君の気持ちに寄り添うことなく,成績を優先した対応を続けていきました。

 そんな状況にあって,トシオ君はゲームなどに夢中になっていきます。

 

 中学生になったトシオ君の進路について,母親と担任との面談がありました。

「B高校しか行くところがないなら,うちの子は他の進路を考えます。どんなことがあっても,いくら何でもあんな高校に行かせるわけには行きません。うちには家の立場がありますから,B高校にしか入れないとなると恥ずかしくて,近所に顔向けが出来ません」

「高校がランク付けされているとしても,あんな高校とは失礼じゃないでしょうか。B高校で一生懸命頑張っている子ども達はたくさんいます。トシオ君と同じくらいの成績の生徒も多くいますが,成績の良し悪しで人間の値打ちが決まるものではありません。B高校に入って,ぐんぐん成績が伸びた教え子は沢山います。先生たちが生徒のやる気を引き出して,B高校は勉強やスポーツに大きな実績をあげてきています。失礼な言い方で申し訳ないのですが,お母さんの考え方を押しつけるとトシオ君の進路観まで歪めてしまいかねません。トシオ君としっかり向き合って,話し合ってみてください」

 面談を終えた担任が,職員室で仲間の教員にそんなやりとりをしていました。

 このトシオ君は,以前友達を見下げるような発言をして,喧嘩をしたことがありました。喧嘩の発端となった馬鹿にした言葉は,親の意識が影響していたのではないかと思われます。

 下がいることで安心するという心理は,江戸時代の「上見て暮らすな下見て暮らせ」という身分制度に見られます。下の者を見下し差別することで自分の立場を正当化させるやり方です。

 人を見下げ安心するという心理は,差別意識と繋がっており,今でもいろんな形で生きています。そうした意識を生まないように育てることも大切な役割です。

 

 対照的な事例を紹介します。

 夏の暑い日のことでした。

 ある動物園の傍の噴水で,13歳になる少女が涼んでいました。

 そこに,2人の少年がやって来て少女の首をつかんで乱暴を始めました。

 近くでピクニックなどを楽しんでいる人や行き交う人など,30人以上の大人達がそれを目撃したのですが,誰も少女を助けようとしませんでした。

 たまたま,その場にでくわせた11歳の少年が,急いで警察に連絡して,この事件は終止符を打ちました。

 捕まったのは17歳と14歳の体の大きい少年でした。

「誰もが見て見ぬふりをしている中で,直ぐに通報したことは感心です。とても,勇気がいったことでしょう」

「いえ,母に日頃言われていることをやっただけですから」

 少年の行為を誉める記者に対して,少年はそう答えています。

 この家庭の教育には,頭が下がります。

「家庭は子どもにとって,最初の基礎的な学校である」

「子どもは親の鏡」と言われます。

 親の考え方や生き方が,子どもに大きく影響していることを考えると親の役割はとても大切であることが分かります。

 

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 人間関係で悩んでいる人や困っている人は多くいます。

 相談にのって,悩みが解決した時は嬉しく思いますが「自分には関係ない」とか「あなたには関係ないから関わらないで」という人の言動に接した時は寂しく思います。

 自分に関係ない社会や出来事というのは,あるのでしょうか。

 ここで、人間の体について考えてみましょう。

 人間は,各部分が互いに関係をもって統一体をつくっています。

 消化器官を例にみてみましょう。

 消化器官は、口腔に始まり、咽頭、食道、胃、小腸、大腸、肛門までの1本の管です。

 口から食物を摂取し,咽頭,食道を通って,胃で消化分解し,腸で栄養分を吸収して,肛門から不要物を輩出します。

 それぞれが独立した器官ですので,腸は食道とは関係ない。胃とも関係ない。わしは物を吸収することだけをしていればよい。胃が悪くなろうと,肛門がなくなろうとそんなことは関係ない。そうは言えません。

 口から物が入り,食道を通過しなければ胃に届きませんし,胃で十分消化できなければ,腸の吸収も悪くなります。

 また,肛門から排出したくても腸の働きが不活発であれば,不要物が腸にたまったままで肛門に届きません。

 人間は,すべての器官が緊密な関連を持ちつつ統一された有機体ですから,すべての細胞や組織が相互に関連しあいながら正常に働くことで,健康が維持できています。

 体の一部に故障が生じれば,それぞれの器官が正常な働きをしたとしても,健康は維持できません。

 いくら,そこは「自分には関係ない」と言ったところで切り離すことは不可能です。

 国家も有機体という考えがあります。国家は独自に成長発展する生物のような存在で,国民はそれを構成する細胞にすぎないというものです。

 いずれにしても,人はお互いに助け合い,かかわりあって生きています。

 社会も,自分の幸せと同じように,人の幸せを願って「よりよい生き方」を求めています。

 人が足を踏まれたのを見て痛いと感じ,共に共感できるのは人間としての優しさです。

 鋭い人権感覚で物事を捉え,豊かな感性を働かせば,人の痛みがどれほどのものか良く分かります。

 民主国家は,決して物質優位社会の実現を目指しているのではなく,人間の持つ優しさを育て,助け合う社会の実現をねらって営まれています。

 そう考えると,「自分には関係ない」ということは言えなくなるのではないでしょうか。

 しかし,世界には勝手放題に,核兵器で威嚇したり,武力行使で人の命を奪うことを是とし,世の中を混乱に貶めても「お前達には,関係ない。関わるな」と平気で言う国がいくつもあります。

 そうした国の独裁者は,人間の持つ優しさや助け合う社会の実現を頭から否定し,私利私欲を満たすため権力にしがみつき,物質優先社会の実現を志向しています。

 そんな国の独裁者によって,今,地球上が混迷を極めるとても危険な社会を誕生させています。

 一歩踏み間違えば,世界の破滅が現実に起こり得ます。

 

 私たちは,「自分には関係ない」と言って身の回りの矛盾や不合理に目を背けることなく,国内外の社会についても,関心を持ち,監視し続けなければ,後戻りできない最悪の事態に巻き込まれることになります。

 社会の出来事について,自分の問題として捉え,意思表示することが,今とても重要になっています。

 

 

 

 

 テレビで「40歳の男性が、トラックにはねられて死亡」という交通事故の報道がありました。

 それを見て、別段気にもとめない人や同情しながらも聞き流す人、「うちでなくてよかったね」とエゴを丸出しにする人がいます。

 そんな中で、「ご家族の気持ちを思うとやりきれない。大黒柱を失って、これから奥さんは、子どもを抱えてどうやって生活されるのだろう。出来るだけ力になってあげたい」と、行動する人もいます。その姿を見て優しさが育っていきます。

 人の命に対して、真剣に捉える人と人の命の尊さは分かっていても、別段深く受け止めない人には感性に違いがあります。

 そうしたことを考えながら、私たちの日常生活で、子どもの豊かな感性を阻害するような出来事はないのか、例えば日常使われている言葉や行動において、傷ついたり、偏見を生むようなことはないか、みてみようと思います。

「早くしなさい。こっちは忙しいのだから」と、自分の都合で子どもをせかせる。

「うるさいね!」と、スキンシップを求めてくる子どもに邪魔されて言ってしまう。

「人の言うことを素直に聞けないの」と、子どもが言うことを聞かないことに、感情的になる。

「ありがとうの一言も言えないの」と、感謝の気持ちを押しつける。

「何回言えば分かるの」と、頭ごなしにする。

「まだ食べてるの」と、片付けができないため、苛立って怒る。

「よく汚すね」と、汚さないことを求める。

 

 こんな光景は、日常茶飯事にあるでしょうが、子どもの立場になって対応することを心掛けると、子どもの生き方は、随分違ってくると思います。

 子どもの時から人を大切にする思想を育てると豊かな感性が磨かれていきますが,人の痛みを自分の痛みのようにとらえることができなければ,誤った教えで子どもを育ててしまうこともあり得ます。 

 勉強しない子どもを見て、「勉強しなかったらあの人のようになりますよ」と、窓越しに見えたゴミ収集をしている人を指して言うと,子供はそれをどうとらえるでしょうか。

 かつて読売新聞の「窓」の欄に投稿のあった33歳の主婦の方の手紙を紹介します。

 

 主人の仕事は、生ゴミを集めて回る仕事です。・・・・・・主人たちが、ゴミ集めをしていると「勉強せんとこんな仕事しかできんようになるんや」「あんなおっちゃんにあったらあかん」と子どもに言い聞かせるお母さん方がいるんだそうです。主人は「人それぞれや、言わしといたらええんや」と言いますが、私は腹が立ちます。「うちの主人たちの仕事がなかったらどうしますか。それにこの仕事のどこが悪いんですか。そんな冷たい言葉はないでしょう」と・・・・・・。そして、せめてご苦労さんの言葉くらいかけてあげてほしい。主人は、朝5時に出かけて、夜は10時を過ぎる日も少なくありません。それなのにそんな言葉で、主人たちの心を踏みつける人たち「おたくらどこがそんなに偉いんですか」と言いたいのです。・・・・・・

 

 

 私たちが、日常何気なく使っている言葉が、子どもたちや周りの人の心をどれだけ傷つけているのか。また、どれだけ偏見を育てているか考えて見る必要がありそうです。

「幸せになるためには、いい学校に入って、いい成績をとって、いい会社に勤めること。そして、役職に就いて、お金をたくさんもうけること」

 そのように親が子どもに教えている家庭は、今は少なくなったと思いますが、ある小学生が母の日に書いた作文でこういうものがありました。

 

 ぼくは、お母さんが大好きだ。だから、お母さんが言うように、一生懸命勉強して、いい学校に入って、卒業したら大きな会社に勤めて、お金をいっぱいもうけて、とびきりの養護施設にお母さんを入れてあげようと思います

 

 幸せというのは、百人いれば百通りの一人ひとり違う幸せがあるはずです。一つのレールに乗せることで幸せが約束されているかのような考えは、もはや通用しなくなっています。

 家庭の親の役割を考えたとき、本当の愛情は、子どもがやがて独り立ちしたときに困らないような教育をすることではないかと思います。

 家庭生活は、社会生活を営む上での大事な基盤です。温かい思いやりや愛情、尊敬や信頼は、家庭でのふれあいの中で育まれますので、社会の矛盾や不合理、差別に気付く目を養うために、幼い時から豊かな感性を育みたいものです。