今、暇と退屈の倫理学という國分功一郎先生の本を読んでいる。最初の方だがそこにパスカルの欲望論というものがある。それについて今日は考えを勝手ながら述べたいと思う。

パスカルが言うには暇がある人間、気晴らしを求める人間というのはそもそも家でじっとできない退屈で惨めな人間である。兎狩りの比喩というものでよく説明される。兎狩りに今から行く人間に兎を渡したところで彼らは喜ばないだろう、と。つまり彼らは兎狩りに行って兎を狩ることが欲望の対象ではないということだ。むしろ、それを原因として例えば明日友人に狩をしたことを自慢したいとかそういうことだそうだ。

この対象と原因を取り違える人間程惨めなものはないとパスカルは言う。解る。

それに人間はやたら自分に負荷を与えて気晴らしを行うという。気晴らしがパチンコである自分の先輩などを見ればよくわかる。カジノが流行るのもそう言う理由であろう。僕はそれが悪いわけではないと思っている。

パスカルはこの家でじっとするために神への信仰を持ち出す。が、これが自分はどうも気に食わない。神への信仰は日本でいう専修念仏のようなもので済むのであろうか、これも聖書なりなんなりでお金という負荷がかかるものであろう。しかも、神への信仰はそれも気晴らしになる人もいそうなものだ。僕にとってはそれだったらパチンコと変わらない。寧ろ儲かる可能性が少なくともあるパチンコの方がマシに見える。

別に僕は無神論者なわけではない。でも、神というものがいたとして、人類を超越だかなんだか知らないけれど、それを拝むためにお金や時間を使うと言うのならそれは無駄とも思える。

パスカルは解らない。いや、解る必要もないのかもしれない。というか解るはずがない。でも、解ろうとした上で自分なりの意見を持つ人間でありたい。