※一部アメブロ使用に変更
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紺ver.
白ver.
置きにきました(無難なことをするということ)。安牌(安全な牌を捨てるという麻雀用語)。無難(長所も短所もなく普通ということ)。
pixiv にてフリー配布しています。母に頼まれまして。わたくしは花粉症ではあるのですが喘息ではないので喘息のイメージがよく分からなくて。気管支炎みたいなのにはなったことがあるのであの感じかと。肺に痛覚はないらしいけれども肺が痒いような感覚。母が喘息で一時期は嗅覚もダメなくらいでして、赤いプラスチックの円盤みたいなやつとか紫色の巨大なスゥッ・・・ってやるスキューバダイビングで使う、そうシュノーケルだ、極太シュノーケルみたいなのを使っていたのは覚えています。最近安定したみたいだけれども、たまに遠くで仔猫が鳴いてんのかな?って思うと母の胸の音だったりするわけで。なんか父も喘息だったような?母よりは軽度って感じだった気もしますが。喫煙者なのもあって咳していても喘息なのか分からないものの。
ちなみに近所の医者が喘息大好きvでわたくしも喘息の検査したことあるんですが、常に無表情な医者の目がキラッキラでしたね。でも喘息じゃないと分かるとまたサゲだわ~とばかりに虚無に戻る。
そんなこんなです。今日は3月11日。9年前の2011年のあの日からもう避けて通れない話題になりましたね。あの日のことはやっぱりよく覚えています。購買部で不祥事()があったのも覚えています。国語のワークをやっていました。わたくしは壁際の席で壁に背を付けていたものですから多分揺れには結構早めに気付いていました。長い揺れで、隣のクラスで授業をしていた担任の先生が戻ってきて本棚を倒しに来たのも覚えています。
兄が車を買った日で、赤というちょっと赤色を帯びた筋骨隆々のキジトラの猫がやたらと擦り寄ってきたというのは家にいた母から聞きました。
家で見たテレビの中継は今でも覚えています。地形が黒く塗りつぶしていくような津波だとか。わたくしの家はちょっとタンスが開いて、わたくしの机の上の物が積み上げすぎて倒れていたくらいで大した被害は受けていなかったものの、色々考えるとクるものがありますわ。被災した人たちとか亡くなった人たちとかその遺族のことだとか。
進路相談の時、わたくしはみんなが大学に行くから大学に行くという流された考えを持っていて、文系寄りの理系を選んでいました。わたくしは何でもよくて、薬剤師とか看護師とか理学療法士とかとにかく医療従事者を志望している人たちが多かったものですから、わたくしも流されるままという感じでした。でも実際問題勉強もそんなできなかったし積極的に勉学に励むタイプでもなかったので志望校はクリエイター系学科を選んでいました。
三者面談で母は東日本大震災から社会に貢献できる人になってほしいというようなことを言いました。わたくしはまだ「デザインで人を救えればよくね?」と安易に考えていました。まだ誰かのための創作ができると信じていたんですわ。「それはエゴである」と論文を教えてくれた講師から諭されるまでは。それから大学に入って、「彼女は他人のためになる作品作りに苦しんでいる」「マスターベーション(ここでは独り善がりな作品作りの意)ではいけない」「我々がやっているのは感動商売ですから」(以上同じ教授の発言)という言葉を本当に大学の後半の後半で真に受けて、わたくしはもう分からなくなってしまっていた。自分で選び取り考えることを放棄していたんですね。
今でも答えは出ていません。ただフリー素材にして誰か求める人がいるなら使えよ、と。それが社会のためだなんて大きな対象でなくても。このイラストに限ってはね。
そんなこんなでたまたま日付的には昨日の夜これを作り、何となく今日がそういう日だったっといったところで。
2020.3.11
白ver.
置きにきました(無難なことをするということ)。安牌(安全な牌を捨てるという麻雀用語)。無難(長所も短所もなく普通ということ)。
pixiv にてフリー配布しています。母に頼まれまして。わたくしは花粉症ではあるのですが喘息ではないので喘息のイメージがよく分からなくて。気管支炎みたいなのにはなったことがあるのであの感じかと。肺に痛覚はないらしいけれども肺が痒いような感覚。母が喘息で一時期は嗅覚もダメなくらいでして、赤いプラスチックの円盤みたいなやつとか紫色の巨大なスゥッ・・・ってやるスキューバダイビングで使う、そうシュノーケルだ、極太シュノーケルみたいなのを使っていたのは覚えています。最近安定したみたいだけれども、たまに遠くで仔猫が鳴いてんのかな?って思うと母の胸の音だったりするわけで。なんか父も喘息だったような?母よりは軽度って感じだった気もしますが。喫煙者なのもあって咳していても喘息なのか分からないものの。
ちなみに近所の医者が喘息大好きvでわたくしも喘息の検査したことあるんですが、常に無表情な医者の目がキラッキラでしたね。でも喘息じゃないと分かるとまたサゲだわ~とばかりに虚無に戻る。
そんなこんなです。今日は3月11日。9年前の2011年のあの日からもう避けて通れない話題になりましたね。あの日のことはやっぱりよく覚えています。購買部で不祥事()があったのも覚えています。国語のワークをやっていました。わたくしは壁際の席で壁に背を付けていたものですから多分揺れには結構早めに気付いていました。長い揺れで、隣のクラスで授業をしていた担任の先生が戻ってきて本棚を倒しに来たのも覚えています。
兄が車を買った日で、赤というちょっと赤色を帯びた筋骨隆々のキジトラの猫がやたらと擦り寄ってきたというのは家にいた母から聞きました。
家で見たテレビの中継は今でも覚えています。地形が黒く塗りつぶしていくような津波だとか。わたくしの家はちょっとタンスが開いて、わたくしの机の上の物が積み上げすぎて倒れていたくらいで大した被害は受けていなかったものの、色々考えるとクるものがありますわ。被災した人たちとか亡くなった人たちとかその遺族のことだとか。
進路相談の時、わたくしはみんなが大学に行くから大学に行くという流された考えを持っていて、文系寄りの理系を選んでいました。わたくしは何でもよくて、薬剤師とか看護師とか理学療法士とかとにかく医療従事者を志望している人たちが多かったものですから、わたくしも流されるままという感じでした。でも実際問題勉強もそんなできなかったし積極的に勉学に励むタイプでもなかったので志望校はクリエイター系学科を選んでいました。
三者面談で母は東日本大震災から社会に貢献できる人になってほしいというようなことを言いました。わたくしはまだ「デザインで人を救えればよくね?」と安易に考えていました。まだ誰かのための創作ができると信じていたんですわ。「それはエゴである」と論文を教えてくれた講師から諭されるまでは。それから大学に入って、「彼女は他人のためになる作品作りに苦しんでいる」「マスターベーション(ここでは独り善がりな作品作りの意)ではいけない」「我々がやっているのは感動商売ですから」(以上同じ教授の発言)という言葉を本当に大学の後半の後半で真に受けて、わたくしはもう分からなくなってしまっていた。自分で選び取り考えることを放棄していたんですね。
今でも答えは出ていません。ただフリー素材にして誰か求める人がいるなら使えよ、と。それが社会のためだなんて大きな対象でなくても。このイラストに限ってはね。
そんなこんなでたまたま日付的には昨日の夜これを作り、何となく今日がそういう日だったっといったところで。
2020.3.11