20歳から始める遺書

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今回はシス男女間差別について考えていく。

今回の対象はシス男女間についての議論が中心となるから、「それは、トランスジェンダーに対する考慮が足りていない」という反論は先に否定しておきたい。

トランスジェンダー差別に関しては次回取り扱うこととしたい。

 

 

世の中には様々な差別があるが、日本で一番身近に感じるのはこの男女間差別、とりわけ、女性に対する差別ではないだろうか。

実際、僕も女性が不当な扱いを受けているのを目にすることがある。

それらは女性に対して不利益なものであるから、本来はなくすべきものであろう。

では、その具体例について考えていきたい。

 

 

僕が考える上でこれはひどいと思った事案が、医学部入試における女性差別である。

医学部入試において女性が(正当な理由なく女性というだけで)減点されたという事案である。

これはその人の属性をもとに不当な評価をしているのだから、明らかな差別であり、不利益も生じているため批判されるべき事案である。

このような差別が生じた背景としてその先のキャリアである医者の勤務体系が考えられる。

医者は長時間のオペや深夜の緊急外来などといった特殊な勤務体系を強いられている場合が多い。

そんななかで女性の医者が産休・育休で現場から離れた場合、その分のしわ寄せは全て同僚の医者に押し付けることとなり、あっという間に過労死ラインを越えてしまうことになる。

こういったことがあるため、医学部入試において女性差別を軸に批判しても、筋違いとなってしまう。

まずは医師の労働環境を整備するところから始めなくてはならない。

 

 

医師に限らず、女性の産休・育休に伴う現場の離脱を見越して昇給・昇進を控えるケースなども一般企業で散見されるが、これは評価として適切ではない。

やはり個人を属性で判断して不当な扱いをすることは適切でない。

そういった”傾向”はつけるにしても、その属性カテゴリーの対象の人全員がノーチャンスなのはいただけない。

やはり、機会均等だけは最低限確保すべきではないかと考えられる。

というのも、実際、あまり昇進などを望んでいない女性も一定数いるのも事実であるから、極端な方向に義務化するのではなく、機会均等や権利などを徹底し、選択権を与えるべきで、その選択に対しても、一切の差別をしないというのがあるべき姿ではないかと思う。

 

 

もう一つ確認しよう。

これはまた別視点の話であるが、痴漢被害についてだ。

ここでは、とりわけ電車内の女性が受ける痴漢被害について取り上げる。

前提として、(当たり前だが)痴漢は加害者が一番悪い。

だが、一方で冤罪被害なども発生していることも事実で、そういった被害の解決構造にも問題があると考えられそうである。

さて、この痴漢被害の防犯対策として女性専用車両というものがある。

鉄道会社によって詳細は様々であるが、通勤の時間帯では男性は立ち入れない車両が存在している。

このときの女性専用車両の設置理由は紛れもなく痴漢被害防止であるが、ここにひとつの差別構造が入っている。

その中には「男性は痴漢する」という一つの差別要素がある。

しかしながらこの差別は解消しなくてもよいと考えられる。

いま、防犯する権利と差別されない権利がぶつかっているわけだが、そこから生じる被害の内容、量などを鑑みるに防犯する権利の方が優位である。

一方で、「男性は痴漢する」という社会規範のせいで痴漢の冤罪被害が生じていることも事実である。

これに対する対策として男性専用車両を設置するという案もあり、一見公平に見えるが、実際の痴漢被害の数と冤罪被害の数が異なるため、被害の規模が小さく、防犯するまでには至らないというのが現状である。

そもそも、「男性は痴漢する」という社会規範よりも、「女性は痴漢される」という社会規範をなくした方が、全体の被害は少なくて済むはずである。

 

 

この防犯する権利に関しては、公共のトイレにも同じようなことが言えるが、少しトランスジェンダーの問題が関わってくるので、また次回取り上げることとする。

今回からは差別について考えていきたい。

もう一度注意しておきたいのだが、このブログは誰かを差別する意図はなく、もし読んだうえで不快な気分になった場合は直接指摘してほしい。

正当なものであると判断できるのであれば、訂正等の対応を行いたい。

 

 

さて、差別は当然だがよくない。

しかし、現在行われている差別を非難するためには、差別そのものがどういったものであるか、知る必要がある。

一応、Wikipediaの「差別」の記事をみると、以下のように記述されている(2021/12/17)。

『差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為である。それが優遇か冷遇かは立場によって異なるが、通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。』

属性をもとに扱いを変更することが正当でないことが示されていないが、差別は属性を理由にした扱いに対する不利益について主に言及している。

当然だが、属性によって優遇されることもある。

しかし、特定の属性を優遇すれば他の属性に属する人にとっては相対的に冷遇となってしまう。

よって、僕の今後の話の中での差別の定義は、属性によって扱いを変更すること、としたい。

というわけで、最終的な定義は「個人に対して、その人が持つ属性の社会的規範を押し付けること」としたい。

 

 

この社会的規範を押し付けるというのがどういうことか考えていこう。

ここでいう社会的規範というのはたとえば、男とはかくあるべき、女なんだからこうするべき、のようなものから始まり、男性は一般的にこうするからこの人もそうするであろう、のようなものや、こういったタイプの人はこうするだろうから、のようなものまでの社会一般的な属性の特徴をその人にも当てはめて考えるようなこと、として考えたい。

シス男女間の差別に限定すると、これはしばしばジェンダーバイアスと呼ばれる。

これは不利益なことになるかどうかでは判断せず、属性の特徴をもとに同じようなケースに当てはめたかどうかで判断したい。

 

 

以下は僕が実際に体験した例である。

僕(男性)はある日、友人(女性)と2人でファミリーレストランで食事をとった。

そのファミリーレストランではテーブルにおいてあるタブレット端末から注文でき、テーブル内で誰が商品を注文したかわからない仕組みになっていた。

僕と友人は同じ定食を注文したが、ご飯が大盛無料だったので僕だけ大盛にした。

実際に料理が運ばれてきたとき、何の確認もなく、僕の方に大盛の方の定食が運ばれた。

これは紛れもなくジェンダーバイアスであろう。

僕はこのとき、「男性の方が多い量のご飯を食べるであろう」という社会的規範を押し付けられた。

しかしながら実際に大盛の定食を頼んだのは僕の方であるから、なんらこれといった実害は出ていない。

ポイントはやはり属性をもとにした社会的規範を押し付けられたことにあり、不利益が生じたかが問題ではない。

今回は不利益がなかったので、僕は声を上げなかったが、こういったことを繰り返していけばどこかで不利益が生じるケースが生まれる可能性がある。

 

 

しかし、差別に対して声を上げることには実はデメリットがある。

それは差別であったと認めてしまうことだ。

先程の例では僕は店員が確認を怠ったまま純粋なミスで定食を置いた可能性があるが、僕がこれに対し差別だと声を上げた場合、その可能性を完全に捨てきってしまうことになる。

実際は差別ではなく偶然起きた事象の可能性もあるので、差別に対して声を上げるのには注意が必要である。

(ふつうはこの程度のことはオトナなのだから黙るべきであろう)

 

 

最初に言った通り、差別は良くないものであるが、僕はすべての差別を否定するのは難しいと考える。

なぜなら、元の主張でも言っている通り、この差別問題は複数の要因が絡んだ問題であるから大元の差別感情をなくせばなくなるようなそんな簡単な話ではない。

実際には優しくて気の使える人であっても、その人の思考は属性の社会的規範にまみれているから、根本的に差別をなくそうと思えば、考え方や前提を大きく変える必要がある。

そして仮に1人に対してそのアプローチがあったとしても地球上の全員にそれを行うことは不可能に近い。

もし行うのであれば、今の教育と社会構造のあり方を根本から変える必要がある。

例えば、人種差別や民族差別をなくしたいのであれば、国家という社会形態はやめるべきだし、アメリカの合衆国制度や、日本の都道府県制度もすべてやめるべきであろう。

真に差別をなくそうと思えば、徹底した教育と、できうる限り属性そのものを排除し、すべての扱いは個人の能力によってはかられるべきである。

果たしてそれが現実的な手段であろうか。

僕にとっては疑問符が残る。

そこで解決策として、あからさまな不利益はなくすという方向で手を打ちたい。

これは平等、公平などの問題でもあるが、僕は”機会均等の徹底”が全員が納得できるものなのではないかと思う。

(具体的な事例については次回以降で語っていくとしたい)

 

 

次回はシス男女間差別について話していきたい。

これまでの内容で、僕は死に対する考え方を述べた。

その中の明日死んでもいいという覚悟をもつという考え方は、時として「(犯罪を含む)あらゆる行為に対して躊躇がない」という風にとらえられるかもしれない。

ここではそれを否定しておきたい。

 

 

たとえ自分の命を捨てる覚悟があったとしても、それは決して他人の生存権を含む権利を侵害してよいことを意味しない。

自分が死ぬことまでリスクを取ったうえで実行できる行動には制限がある。

それは他人の権利を侵害しない範囲での行動である。

(しかし、人が死ぬとほとんどの場合で他人に迷惑をかけるのでここでは大きく権利を侵害する場合を検討したい。)

要するに、僕が取れる行動はあくまで自己責任のとれる範囲での行動に収まるということである。

その責任を取り方の最大値が自分の死なのであって、それ以上の責任に関してはそもそも負うことができない。

他人の生存権を奪うことは自分の死では償いきることはできない。

ましてや、自分が死んでしまえばそれ以上反省することはできない。

自分が個人の権利を主張するのであれば、その前に他人の権利を保障する必要がある。

 

 

さて、ここまで述べたうえで自分がなぜ死なずに生きていくかを話していこう。

理由は複数にわたる。

まず、一度死んでしまえばこのような思考は二度とできない。

今日明日と生きていくうえで後悔をしないように生きているが、そのうえでも知的探求心は尽きない。

日々考えることや感じることがあり、その体験はできるだけ多く享受したい。

次に、それでも死ぬのは怖い。

いくら死に対して覚悟があるとはいえ、いざ死ぬときに感じる肉体的、精神的苦痛は計り知れないものである。

そこに対して全く持って苦痛がないというわけではない。

 

 

つまるところ、死ぬことに対して少なからずハードルがあるわけだが、それを超えるような何かがない限りは死ぬという選択肢は選ばない。

そしてこれが最後の理由とつながるわけだが、それは”そこまでの理由がない”である。

そのハードルを越えてまで死ななければならない理由が現状無い。

つまり、今死ぬ理由がないのだ。

 

 

ここまで聞くと、本当は死ぬ覚悟がないのでは、と思われるかもしれないが、反証したい。

そもそも死ぬこと一つとっても様々な死に方がある。

その中で僕が高い可能性で想定しているのが交通事故や病気のような自分の意図しない範囲の死である。

現状自殺は想定はしているものの、ボリュームゾーンには入ってこない。

自分の意図しない範囲での死は毎日想定しているから、その覚悟があるといってよいだろう。

よって、僕は明日死ぬ覚悟をもっているが、自分の意志で死ぬことは今のところ想定していない。

 

 

さて、ここからは余談であるが、ここまで生と死について語ってきたので、とあるトピックについて言及したい。

それは、反出生主義である。

現在僕が生きている時代で最近流行っている考え方の一つだ。

知らない方もいるであろうから解説しておきたい。

ただし、注意点としてこれは僕が理解している反出生主義であるから、実際に流行しているものとは違う可能性がある。

 

 

反出生主義とは結論から言うと、「子供は生むべきでない」という主張である。

現代社会を生き抜くうえで、子供が生まれ、成長し、大人になっていく上で非常にストレスを抱えることが多い。

中には、生活していくのが辛かったり、不利な環境にあってしまい、周りの子についていけなくなったり、生きるのをあきらめてしまったりする子もいる。

これは子供時代だけでなく、大人になってもそうである。

もちろん、生きていくうえで幸せを感じることだってある。

おいしいものを食べたり、友達と遊んだり、パートナーと素敵な時間をすごしたりして幸せを感じることもある。

さて、現代の状況では不幸になる総量と幸福になる総量はどちらが多いであろうか。

幸福量の計算は難しいが、この反出生主義では、子供が生まれたとき、その子供が不幸になる確率が高いと定義される。

親が毒親であったり、いじめにあったり、ハラスメントや犯罪に巻き込まれたりする上、最終的には必ず死という苦痛を体験しなければならない。

もしそうなのであれば、苦痛を感じるより、そもそも苦痛を感じないようにした方がよい。

よってそもそも子供は生むべきではない、という主張である。

(この考え方はネガティブ功利主義をベースとした反出生主義である)

 

 

この主張をすると、いくつかの質問が飛んできそうなので先に対応しておく。

・この主張をしている人は(主に)家庭環境に問題があった人なのか?

そうではない。その人が持つ属性とその人が持つ主張にはそもそも関係がないから、そうとは限らない。例えば、シス男性がフェミニズムを主張してもよい。

決して「生まれなければよかった」という主張ではない。

・要は死にたいということか?

そうではない。あくまでネガティブ功利主義に基づいているから、今生きている命に関して死を与えればそれは苦痛になってしまうからそれは元の主張と異なる。

あくまで、不幸も幸福も感じない方向にもっていくのがこの主張であるから、希死観念は含まれていない。

・シス男女間同士のパートナー関係を否定するものか?

そうではない。この主張は子供を産まないことにのみフォーカスしているから、恋愛や結婚、避妊を前提とした性行為は肯定される。

・生物学的に間違った方向の主張では?

確かにそうである。しかし、そもそも人には自由な主義主張を唱える事由が保証されており、それを生物学的観点から否定するのは論点がずれている。

これを否定しなければならないのであれば生産性のない同姓カップルについても否定しなければならない。

・幸せになるように育てればいいのでは?

確かにそうである。ただ、苦痛を感じる可能性は完全に否定できず、そもそも幸福も不幸も感じない方がよいという主張だから、やはり論点がずれている。

 

 

大抵の親が子供を思って生むのではなく、世間体などを意識して自分のエゴで子供を産むという事実からもこの考えは若者を中心に広く広まっている。

 

 

では、僕がこの考えに賛同しているかと思えば、半分YESで半分NOである。

この主張に僕が大きく賛同している点は子供は自分が生まれてくる環境が選べないことだ。

親、国、言語は選べないどころか、生まれてきた瞬間にその場所にいただけで身に覚えのない社会契約を国家と結ばされる。(国家は国民幸福の手段であるはずだから、ここには今もなお納得がいってない)

はっきり言って、現代の環境は(少なくとも日本においては)機会均等というにはほど遠い。

そのなかで一方的に不利益を押し付けられるのはかわいそうである。

 

 

一方で賛同していない部分もある。

そもそもこれは主義主張だから他人に押し付けるものではない。

少なくとも、人には自由に子供を産む権利が保障されている。

もし、自分がこの主張に賛同しているのであれば、自分が子供を産むかどうか考えたときに勝手にすればいいという話である。

また、自分が子供を産むときには子供にとって最大限の良い環境を用意すれば僕は子供を産んでもいいと考える。

自分がこの反出生主義に関する問題を的確に考え、子供によい環境を提供できると確信できるのであれば、出生に関して何も問題はないはずである。

それが生まれることを拒否する権利のない子供に対する適切な契約だと僕は思う。

 

 

では、出生前遺伝子検査で子供が重度の障害を持つとわかった場合どうするか、というのはまた機会があれば話すとしよう。

これはまた別の問題が関わってくる。

 

 

これをもって、生と死に関する内容は区切りをつけたい。

また何か思い出したら書き加えることとする。