自分のことは自分が一番わからない
自分のことは自分が一番わからない。生まれてから死ぬ時まで一生、自分のことを自分の目で直接見ることはできない。手で触れて肌質を確かめることはできても目で見ることはできない。鏡を通さないと自分を見ることはできない。見れないのは当たり前のことなんだけど、いつも”ここ”にあるのに見れないってなんか不思議だなって思う。わたしは自分がわからない。ただ自分を確認するには自分以外の”他者”が必要なのは知っている。例えば世界中の全ての人が自分と全く同じ見た目で、性格で、考えで、価値観で、できていたとしたらそれこそ”自分”はないんだと思う。凸と凹があって初めて「あ、わたしはこれが好きなんだ」とか「あ、苦手なんだ」とか「できるんだ」、「できないんだ」っていうのがわかって、自分っていう存在について1つ1つ確認作業するみたいに知っていくんだと思ってる。だけどその凸凹を見つける度に「自分は人と違うんだ」ってことを突きつけられる。”みんな一緒”の社会の中ではそれが結構きつくて。我慢しないと生きていけなくて。自分を押し殺さないと”みんな一緒”になれなかった。他人と違う自分の部分って、本当はとっても魅力なはずなのにそう思えなくて。「そのままで大丈夫」って言ってくれる大人もいなくて。だからわたしはそう言える人でありたい。その人が短所だと思ってるところは実は才能なんだって、他の人にはできないことなんだって、伝えられる人でありたい。わたしはずっと自分を探してる。けど探してもないんだと思う。ずっと”ここ”にあるからいくら周りを探しても見つからないんだと思う。”ここ”にあるものを丁寧に確認することが自分を見つける唯一の方法なんだと思う。例えていうなら、鍵をポッケに入れたまま「ねえ、鍵どこにあるか知らない?」って他の人に聞いてるみたいなイメージ。ポッケに入れたのは自分で自分しかある場所知らないのにずっと探し回ってるみたいな。そりゃ自分しか知らないもん、聞いてもわからないよ、って感じ。ーーーーーーーーーー話変わるけどテレビ電話ってみんな苦手ではないの?周りの人はわたしほど苦手ではないらしくて、また1つ”自分はテレビ電話が苦手”と知った。話してる自分は自分の目で見れないはずなのにテレビ電話になると自分の話してる顔が画面に見えてすごく違和感がある。あと電話先それぞれの状況の細かい情報がすごく気になって会話に集中できない。部屋の明るさとか電話してる人以外の様子とか話し声とか。どこまでが普通でどこからがわたし特有のものなのかわからない。でもこういうのを繰り返して自分を見つけていくんだと思う。わたしは自分を丁寧に見つけていく。愛を込めてmiyu