私の魂を救済した一冊の本 ヴィクトール・フランクル「夜と霧」
ときどき「どうしても」読みたくなるのが、フランクルの「夜と霧」。これは私が受講生の皆さんに、しばしばお勧めする特別な本です(国内でも、国外でも!)。
生きることの意味。
いかに生きるか、何のために。
この本には偶然出会いました。忘れもしない2003年6月。ストレスでずたずたになっていたであろう私の心、いつもそうあるように、仕事を終えて家に帰ろうと、電車に乗るために、有楽町駅そばの国際フォーラムに行きました。
国際フォーラムの前には、大きな樹が植えてあります。そこを通りかかったとき、エネルギーと喜びと表現しがたいほどの感動が同時に湧きあがり、涙が流れる、という体験が起こりました。大きな会社に就職してから失いかけていた、自分らしさの原点ともいえる体験がひさびさに起きたのです。
この特別な体験は、学生の頃からしばしば体験していたものなのですが、説明が難しいのです。「天啓」が与えられるときに体験する、間違いようのないものすごいエネルギーシフトと、理解と感動と、感情的身体的な回復が、突然起きるのでした。そして自身のエネルギーが物凄い高いところへシフトして、いわば体内のエネルギーチャージが突然200%みたいな感覚になるのです。
そんなときはまっすぐ電車に乗るのが勿体ない!という感じで、すぐそばにある本屋に立ち寄りました。本屋ではいつもそうなのですが、特定の場所/棚に引き寄せられます。そして目線が固定された先に私が見つけた本は、「さとりを開くと人生シンプルになる」「夜と霧」でした。
さとりを開くと~のほうは、今でも読んでいません。そして読まないまま、売ってしまいました。しかし、「夜と霧」は何度も読みました。
この本が、なぜかどうしても読みたくなり、ときどき読みなおすことがあります。
「夜と霧」の著者のヴィクトールフランクルは、ウィーンの心理学者、脳外科医、精神科の医者でした。しかし、ユダヤ人だったため、ナチスによって強制収容所に送られました。
彼は、苦しみを苦しみつくし、同時に、極限的な状況で、生命の意味を、自分の精神の動きを客観的に見つめ、また収容所での人間らしさ、心理現象を見つめ、人として生きることをやめず、生還し、その後著書や講演に尽くしました。
そのことそのものが、彼の魂の偉大な転生の目的であったろうことを、いま私たちは霊的に捉えることができますが、それにしても、読んでみると、いつも心の底から動かされ、その人間性と崇高な内面性に、そして人のもつ可能性に、深く心を打たれ、涙を流さずにはいられません。
人間は、「ガス室を発明した」一方で「ガス室の中でも祈る」ことができる存在でもある。人間とは、どちらの可能性を選び取ることができる、内面の自由をもった存在なのだ、と静かにつづられています。
人間愛を忘れない、本当に偉大な人物です。
それが、このフランクルの、夜と霧。
私がよく受講生の皆さんにお勧めする本です。
そして今日(2年ほど前の2013年4月4日)この本を読みながら、涙がたくさん流れました。すると、向こうの部屋でつけていたインターネットラジオから流れ聞こえて来るのは、これまたなんと、あろうことか、フランクルの生地であり活動の拠点であったウィーンの、ワルツ。
ワ ルツは、オーストリア人の魂の音楽と理解していますが、戦時中には、戦争や毎日の辛さを紛らわすためにもよく奏でられたと聞いたことがあります。オーストリアにはたくさんのユダヤ人がいて、その多くは知的な職業や商売を営んでいたり、文化的な生活をしていた人も多いことでしょう。けれど、ユダヤ人という理由で、在る日、追放され、強制収容所に送られるわけです。
そんなヴィクトール・フランクルの本を読み終えながら、またウィーンのワルツが流れてくる、この妙…。いつもいつもそうなのですが、ワンネス、スピリットガイド、また魂のメッセージというものに、気がつかないわけにはいかないですね。
あまりに明らかで!
(ウィー ンといかオーストリアにはまだまだつながりというか、人生のなかで符号がたくさんあるのです。生まれて初めて連れて行かれたクラシックコンサートはウィー ンフィルで、学生時代に自分のお金で見に行った展覧会は「ウィーンの世紀末とジャポニズム展」、銀座で行った私の写真展(2002年2月)のあとの展示者が、オーストリア人の方で 伝統的な花細工に魅せられ、花束を購入しました。それはオーストリアで花嫁に送られる伝統的なアートです。同年9月の結婚式でそれを飾ったのは言うまでもありません。その結婚式でヴァイオリンを演奏してくれた方の所有しているヴァイオリンが、ウィーンフィルの方の所有物で、サザビーのオークションカタログにも載っている、文化的な品物。メディチ家の姫の嫁入り道具だったそうです。その後体調を崩して、最も感銘を受けた本はオーストリア人のヴィクトール・フ ランクル。最初に私が意味が分からず読んだ本の著者、神智学の祖ともいえる「シュタイナー」はウィーンを拠点に活動した人です。そして、過去世リーディン グで初めて聞いた自分の過去世は「オーストリア人で皇太子のために歌っていたオペラ歌手。居住城がまだ現地に残っている」というもの。こう振り返ると、いやいや、人生にはウィーンまたはオーストリアという要素がいっぱいです。オーストリア、チェコの音楽、ボヘミアの草原、などという言葉に幼いころから惹かれるのも、きっとそういうわけでしょ う)
私は、パニック発作や、不安障害の治癒の時期、この本にも大きく助けられたと思います。
どこかで、別の自分が 「そのときの自分に起きていることを客観的に観察している」ところがあったことも共鳴していたのかもしれません。自分の人生を生きていないという意味で、自分にとっては魂の夜の時期を過ごしていたということでもあるのかもしれません(そしてそれは夜明け寸前でもあったことも。でもそうとわかったのは1年ちょっとしてからですが)。また、意識の持ち方、在り方によって、その人の人生に対する処し方というんでしょうか、運命にいかに接するか。
そんなことを考えるタイプであった自分は、フランクルの本を読んで、(彼の心理的癒しの理論はロゴセラ ピーと言われていますが)、本来の自分の在り方に立ち戻れた、自分に気づき、取り戻せた、少なくともそのヒントを得られ、自分の人生を自分なりにいかに生きていくか、少なくとも自分が感じていた真摯な問いと目的が何かあるはずであるという感覚に対して、YESと言えたこと、そして肯定でき、確信できた感じがしたのでした。
この生きることの意味、あるいはいかに生きるのか、というテーマは、人生のなかで経験されるあらゆる事象のなかで、最も重要なこと。少なくとも自分にとっては。
中学生のころからそうでした。(あるとき実家の母親にとっておいたからと手渡された中学時代の作文に書いてあってびっくりです!)
インターネットラジオが、またまた、心慰められる曲を、流してくれるんですな~。いまはシューベルトが流れてきています・・・。世界にはこんなに素晴らしい遺産の数数、人間の活動のさまざまな結果があることをしみじみ感じます。
人間という業の深い存在、その作りだす世界の悲惨さ、みじめさ、悲しさ、苦しみと同時に、一方で喜び、輝き、希望に満ちた人間性。(と書いていたらバッハの「人の望みの喜びよ」が流れてきましたよ・・・。
ほんとに、メッセージは明らかすぎて、いつも癒され、励まされ、その采配に感心し、時折、笑ってさえしまいます。
VIVA,人生。命よ、ありがとう! ですね。
世界では、命が軽々しく扱われています。同時に私たちは、よく問う必要もあるのではないでしょうか。
命を尊んでいるか?
つまり毎日の一瞬一瞬の集積である人生、その一瞬一瞬を十分に尊んで、慈しんでいるか、と。
無駄にしていい命などありません。命を、大切にしなければ。
ということは、無駄にしていい人生などないし、人生を、大切にするということです。
大切にするということは、あらゆるものを当たり前だと考え、軽んじること、無駄にすることと、
ちょうど反対にあることです。
自分の生命も、他者の生命も、在り難い。
環境も、生まれた国が日本であることも、安全に空気が吸えることも、在り難い。
雨が降り、田畑には作物が実り、水が飲めることも在り難い。
地球が太陽からちょうどよい距離を保ち、相変わらず自転公転してくれていることも在り難い。
ありがとうございます。
そのような気持ちになることを気づかせてくれたすべての存在にも
ありがとうございます。
REMI
(こちらの記事の夜と霧のお勧め記事部分は、04/Apr.2012 [Wed] に書いています)