保科正之(1611~1673)

二代将軍 徳川秀忠の子。
三代将軍 徳川家光の異母兄弟。


江戸ばかりか、
今日の東京を作った立役者であり
希代の改革者であると感じる。

これまでの武家政権は
幕府の安泰が最優先であった。
しかし保科正之は
庶民の利便性を優先した。

このような人が政治の中枢である時代は
例え苦しくとも
穏やかな気持ちで過ごせる
時代であると思う。
 

藩主としての政治

寛永20年(1643年)
保科正之は会津藩の藩主となる。

その頃の会津藩は、
前藩主の過酷な年貢の取り立てと
寛永の大飢饉によって
国土が荒廃していた。

 

検地

保科正之が始めにおこなった改革は検地。
藩全体の正確な石高を割り出した。

その結果、
前藩主(加藤明成)が実際の取れ高よりも
2万石分も多く年貢を取り立てていた事が判明。

保科正之は正確な年貢額に修正(減税)するも、
その減税に感動した農民は
隠し持っていた水田(隠田[おんでん])を申告。
減税したはずが、
石高はかえってプラスになったと言う。

まさに北風と太陽だ。

 

社倉(しゃそう)

社倉とは米蔵の事。

藩が米を備蓄し、
凶作や飢饉の時に
民に米を貸出した。

貸した米は
豊作の際に返済すれば良いとされ
無理な返済要求は行なわなかった。

社倉の充実により
東北の大飢饉でも餓死者を出さず
民の暮らしは安定した。

飢饉や冷害は防げないが
飢饉や冷害で作物が取れなかったからといって
餓死するのは誰の責任であるか。
餓死者が出るのは政治の責任である。
保科正之はそう考えたのではないか。

 

社倉が実施できた背景

  1. 社倉の米を運営し増やし拡張した役人には、知行を増すなどの褒美(インセンティブ)を与えていた。成果を出すと褒められる仕組みができていた。
     
  2. 福祉目的財源が憲法で決められており、財政赤字となっても福祉財産には手を付けなかった。

 

 

 

世界初の福祉制度

福祉という考えが無い時代に
先駆けて福祉政策を行なった。

1889年に

ドイツ帝国でビスマルクによって制定された年金制度よりも
約200年も早い実施だと言える。

 

無料の医療

旅人に対して医者にかかる費用を無料にした。

それにより商人が安心して会津を訪れるようになり
経済が発展した。

 

 

養老扶持(ようろうぶち)

90歳以上の老人に障害年金を与えた制度。

働けなくなった老人が

肩身の狭い想いをしていた時代に
会津では
長生きが良いこととして表彰され
障害年金を受け取れた。

棄老伝説に代表される

年配者の知識や経験は
それだけで価値があるものだという
考えの表れではないか。

老後まで保障されるという政策は
民にその国で暮らす事の安心を与え
その結果、人口は急増し
会津成長の糧となった。

この時代の会津は
日本一安心な国だったと言える。

 

養老扶持余談

弘化元年(1845年)幕府より養老扶持の廃止が通達されたが、

会津藩ではその後も変わらず続けられた。

 

徹底した能力主義の人事

1)知行制を廃止し蔵米制を用いた

当時の主な武士の給与は、
藩主から土地を与えられる知行制であった。

“一所懸命”という言葉通り、
その与えられた土地を守り生活を行なっていた。
与えられた土地は能力に関わらず代々家に受け継がれた。

それを

土地では無く
米を現物支給する蔵米制を導入。
能力に応じて所得が変動するようにした。

武士は知行地を守る事よりも
役人として役割を果たすことが重要になった。
軍事的な政治体制から
事務的な政治体制が整っていった。

 

2)新規採用でも能力があれば中核に置く

古参の人間こそ
高い地位にある事がもっともな時代、
保科正之の政権下では
新規採用の人間でも
能力さえあれば古参の役職を飛び越え
高位の地位に就けた。

譜代を重要視しない人事は
違法行為に近い異例の人事。

それでも家臣団がそれに従った。

その背景には、
保科正之の誠実であり実直な人柄と
それまでの行政結果に対する、
厚い信頼があったからだと言える。

それぞれの家臣の家では
能力者会議が行なわれ
最も優秀な人間を
保科正之に仕えさせたと言う。

「主君に迷惑をかけてはならない。」
臣下がそれだけの忠義と熱意を持ち
またそれが名誉であると感じさせるほど
人心を掌握していた保科正之だからこそ

成し得た改革だったのかもしれない。

 

 

 

明暦の大火

 

明暦の大火(めいれきのたいか)とは

明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日までの間に

江戸の大半を焼いた大火事。

この大火の災害対策や復興支援で

保科正之が行なった秀逸な行動をまとめる。

 

将軍避難

火事が拡大する中、

幕閣たちはどこに将軍徳川家綱を避難させるか

議論した。

老中の松平信綱は火事の風上にあった上野寛永寺を主張。

大老の酒井忠勝や

大老の井伊直孝は

それぞれの別邸や屋敷へ向かい入れようとした。

しかし保科正之は

「本丸に火が回ったら
 西の丸へ移れば良い。
 さらに西の丸が焼けたら
 本丸の焼け跡に
 陣を立てれば良い
 城外へ将軍を動かすなど
 もってのほかだ。」

と進言。

リーダーが軽々しく動けば
人心が動揺する事を理解していた保科正之は
将軍を江戸城に留め置く事で
災害対策本部を明確にし

それと同時に

幕府の権威と威厳を保ったのである。

 

 

米蔵の米取り放題

当時の江戸は

火消しの制度がまだまだ整っておらず

現在の消防署のような

街単位での消火活動はできなかった。

 

その中、

幕府の米が貯蓄してあった蔵も

火の被害に巻き込まれようとしていた。

 

 

武士にお給金としてお米を渡して時代。

米はお金としての価値もあった。

その米が消失とも成れば、

災害復興する資金も消失する事になる。

 

そこで保科正之は

「米蔵の米取り放題」というお触れを出す。

今で言えば

「銀行のお金をばらまきます!」

「市場の食量を無料であげます!」といった

内容のお触れだ。


当然、民は必死に米蔵へ向かう。

しかし米蔵に向かうには

目の前の火を鎮火しなければ進めない。

 

江戸に住まう多くの民が

お米ほしさに米蔵近辺の消火活動を行ない

米蔵へ突進した。

 

その結果
消失するはずだったお米は助かり
災害支援となる救助米も

民の手に渡す事ができた。


「人によって目的と手段が違う」という事を

理解していた保科正之。
民の「お米が欲しい」という欲求を

消火活動に転じ

また救助支援も同時に行なうという
一石二鳥の奇策だったと言える。

 

両国橋

火災終息後

被害状況を調べた結果
多くの民が隅田川に飛込み
溺死していた事が判明した。
 


当時は敵の侵入を防御するために
隅田川に橋をかける事は制限されていた。

保科正之は

それを押し切り両国橋を建設。
軍備より民の安全を優先した。

これにより

江戸は隅田川を越えて発展する事となる。

 

江戸城天守閣

明暦の大火により

江戸城の天守閣も焼失していた。

 

 

大火の翌年には
天守閣土台の石垣が完成したが
保科正之は

「再建を暫く延期する」とし

すぐには天守閣の再建を行なわなかった。


その結果

天守閣再建にかかる費用や建築資材は

復興支援に回され

江戸全体の復興を早める事になる。

「天守閣は
 ただ遠くを見渡すための
 物見櫓にすぎない。
 今は江戸の町の復興を
 優先すべきである。」

しかしその後も

江戸城の天守閣が再建される事は無かった。

幕府の事よりも人民の事を考え

それを実施した保科正之。

幕府は天守閣の代わりに

政権への信頼を得る事になった。

 

復興資金

保科正之は江戸復興の為に
16万両(現在の価値で約53億円程度)という大金を
支援金として投じた。

老中達が
 

「それでは金蔵がからっぽになってしまう」
 

と反対したが
保科正之は


「ご金蔵のお金というのは
 このようなとき(非常時)に使うために貯めてある。
 いま使わないのであれば
 始めから貯めなければよい」


と発言したと言われる。

 

あとがき

以上まとめと私的感想として。


BS歴史館
『今いてほしい?日本を変えたリーダーたち「保科正之」』