衰退し続ける教会の起死回生の決定打としての聖霊
執筆者 :手束正昭
ペンテコステ(聖霊降臨祭)は、クリスマス、イースターと並んでキリスト教の〝三大祭〟といわれている。しかし、今ではクリスマスやイースターと比べると、あまり祝われない。それは世間だけでなく、教会も同じで、クリスマスやイースターは大々的に祝うが、ペンテコステもそのように祝う教会はほとんどないであろう。そこには 、今日の教会の聖霊軽視の風潮もしくは聖霊体験の乏しさがあるのではなかろうか。まさにこの私がそうであった。
私は関西学院大学神学部の出身である。そこで6年間も学んだのは、いわゆる「学問的神学」(俗に〝リベラル〟といわれている)である。聖霊は〝神のエネルギー〟のようなものであり、人格ではなく、聖書にある聖霊の超自然的働きは〝神話〟にすぎず、それらは〝非神話化〟されて語るものと教えられてきた。だが、そんな私に、突然に聖霊が降った。使徒行伝2章にあるような出来事が教会の修養会の席上で起こったのである。今から47年前の1975年7月28日のことである。
そこから私の信仰も神学も変わった。聖書に記されている奇跡の出来事は決して神話ではなく、現実に起こったものであり、私たちは今もなお、「使徒行伝継続の時代」を生きているという確信である。そして異言を語り、病を癒やし、悪霊を追い出していった。もちろん、教会もグングンと成長を遂げていった。
そんな私の変貌ぶりと教会の成長を見て、何人も牧師たちが問いかけてきた。「なぜ、高砂教会には聖霊が降って、自分たちの教会には降らないのか」と。それは神の秘義に属するので、真の理由は分からない。ただ一つだけはっきりと言えることは、私の側には何の根拠もなく、全き神の恩寵として起こされたということである。
これは決して謙遜ぶって言っているのではない。その頃の私も教会も、全く恥ずかしい状態だったのである。当時の高砂教会は、名簿上は40人ほどの教会だったが、礼拝出席者は10人そこそこ。祈祷会もなく、月定献金などを平気で牧師に信徒の家まで取りに来させるようなありさまだった。教会堂は荒れ放題で、聖壇には汚い幕が張られ、まるで倉庫のようになっていた。私はというと、およそ敬虔さの乏しい社会派の牧師だったのである。
信徒間にもいがみ合いが多く、私が着任する前は、牧師が4年ごとに代わっていたという。私が神様だったら、絶対に聖霊を降すようなことはしない問題の多い教会だったのである。何と、このようなひどい教会に聖霊は臨んでくださったのである。
このことを通して、私は貴重で重大な悟りを得た。 それは、聖霊を受けるためには、何の資格もいらず、何の条件もないということである。救いと同じく、ただ恩寵によって与えられるものであり、信仰によってのみ受け取られるべきものである、ということである。私はこれを「聖霊の恩寵主義的性格」と呼びたいと思う。
ところが、日本の教会において広く流布しているのは、聖霊のバプテスマを受けるためには資格や条件があり、それを満たす必要があるという誤解である。自分に死にきった、きよめられた人物のみが聖霊のバプテスマにあずかることができるという曲解である。なぜならば、聖霊はきよいお方であるのだからという、もっともらしい主張である。そうすると、聖霊のバプテスマという経験は、ごく少数の霊的エリートのものとなっていくことになる。 私はこれを「 聖霊の律法主義的曲解 」と呼びたいと思う。そして、このことが深い部分で日本の教会のリバイバルを妨げているのではないだろうか。
かくて、パウロはこのような「聖霊の律法主義的曲解」に陥ってしまったガラテヤの教会に向かって厳しく問いかける。
わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。 御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも聞いて信じたからか。(ガラテヤ3:2~5)
日本の教会の不振が叫ばれるようになって久しい。不振どころではない。今や大きく衰退に向かっている。教会はガラガラであり、神学校では閑古鳥が鳴いている。一体どのようにしたら起死回生ができるのか。心あるクリスチャンたちはこのことに腐心しているはずである。
その〝起死回生〟の決定打こそ、聖霊のバプテスマであると私は考えている。それは決して難しいことではない。パウロの言うように「聖霊の恩寵主義的性格」を教会が理解し、取り戻すことである。そして聖霊のバプテスマを体験する多くのクリスチャンが次々と生まれることである。そうなれば、クリスチャンであることの感謝と喜びがあふれるだけでなく、伝道へと向かわしめる力が満ちてくるであろう。
(高砂教会の聖霊降臨の出来事とその後の歩みについては、拙著『恩寵燦々〔さんさん〕と 聖霊論的自叙伝』〔上・下巻〕に詳述してありますので、ぜひともご一読ください)
◇