「出来たら見せてね」
「うん。もう少しで書きあがる」
水崎チヒロと小川リョウタの関係は、簡単に言えばアニメ製作会社の同僚だった。けれど他のアニメーター達が十歳も年の離れた先輩達だったから、まだ新人の二人は何かにつけて一緒にいることが多かった。
「出来た!」
「どれどれ、見せて」
製作部の部屋は歪で、先輩達がいる大きいスペースとディレクター達が使う小さいスペースに別れていた。なぜか二人も小さい方に席があった。
背向かいの席だがら、二人はイスを半回転さえて膝を突き合わせた。
「いいんじゃない? 吸い込まれていくところ、上手く書けていると思うよ」
パラパラと紙をめくっていくチヒロが顔をあげて言った。
「チヒロにそう言ってもらえると嬉しいな」
リョウタは美大出身でもあるチヒロを秘かに尊敬していた。
「私も負けてられないな。頑張らなくちゃ!」
「そっちはどんな感じに書いているの?」
机に向き直ったチヒロの肩越しからリョウタが覗き込む。彼女が任されていたのは、リョウタよりも長いシーンだった。
「私はね……」
今、二人が手がけているのは、コインほどの覗き穴を発見した少年が現実とはまったく異なる不思議な世界を冒険するという物語である。
リョウタは穴の向こうに吸い込まれてしまった少年が、謎の影と遭遇するシーンだった。一方のチヒロは、光のヌシにあって剣を差し出す重要なシーンであった。
「どう?」
チヒロの描く線には、不思議な自信に満ちたものが感じられた。その一方でどこか違和感といいのか、彼女らしさが1コマ1コマにあった。
「うん。いいんじゃないかなぁ……」
「ああ、何か変だと思ったでしょ? 言ってよ。気付いたことがあるなら遠慮しないで」
「うん、……」
リョウタはそう言うと、もう一度パラパラと見直した。
はっきりとした問題点までは分からない。なのに、何か不自然な感じがする。リョウタも紙を見つめながら、それがどこなのか考えていた。
「言って!」
「うん」
「遠慮しないで」
「……。僕もはっきり分からないんだ。だけど……」
「何よ。どうしたの?」
「上手くいえない」
そんな二人のやり取りを見ていたのは、先輩の一人だった。
「これ、見てもらえませんか?」
「ん? 何々」
先輩は慣れた手つきでパラパラとめくり、直ぐに顔をあげた。
「どっちが書いたの?」
「ハイ、私です」
「チヒロか……」
その声には、明らかな落胆が含まれていた。
「リョウタのは?」
「ああ、僕のはこれです」
「フ~ン。なるほど」
そう言うと先輩は、席を外しているディレクターのイスを引張ってきて腰を掛けた。
「そんなの分かっている。そう思うかもしれないけど、あえて言うね」
「ハイ」「ハイ」
先輩がすこし神妙になったので、二人も顔を見合わせてから背筋を伸ばした。
「紙に鉛筆で線を引く。それは落書きだ。少なくともプロのアニメーターなら、その線に命を吹き込もうとしないと」
その言葉自体、二人にとっても目新しい言葉ではなかった。実際、美大でも教育を受けてきたチヒロには、初歩的なアドバイスに思えた。
「チヒロ。そのものさしを手渡してくれ」
「これですか? ハイ!」
「ほら、どうだ?」
「どう?」
何のことか分からない二人はまた顔を見合わせた。
先に気づいたのは、リョウタの方だった。
「チヒロ。ここ。ここだよ。ですよね?」
先輩の方を見ると、大きく頷いてくれた。
「何? 何? 意味が分からない」
まだ気がついていないチヒロは、リョウタと先輩の顔を見比べた。
「本当に分からないんだけど……」
そう言ったとき、リョウタが先輩からものさしを受け取ったところで止まった。
「ここ。この角度」
「ええ?」
リョウタが机の上に置いてあったチヒロの紙を指さした。
「うん、これが何?」
チヒロがなかなか気がつかないので、先輩が口を挟んだ。
「チヒロが書いた絵は、腕の動きにリアルさがないんだよ。実際に物を手渡す時を見ると、こんな風にはならないだろう?」
「だけどこういう風に渡しても……」
チヒロが反論しようとしたとき、先輩がそれを制した。
「確かに、チヒロが言うのも分かるんだ。だけど物を手渡す時、肘と手首、手の関係には、誰もが無意識に理解している位置があるんだ。何も、そんな時ばかりじゃない。服を着る。脱ぐ。コップを持つ。放す。そのどれにも人間らしい動きがあるんだ」
「私、向いてないのかな」
長い作業を終えて、二人はようやく会社を出た。駅まで歩いている途中、昼間、先輩に指摘されたことをチヒロは思いだしていた。
「チヒロは、絵が上手いんだ。直ぐにできるようになるよ」
リョウタもそれは直ぐに理解できる些細なことだと思っていた。
「なんか。アニメーター以前の話された気分」
「落ち込むなって。チヒロらしくないぞ」
リョウタはあえて明るく振舞っていた。
「恋とかもちゃんとしたことないからな……」
ポツリとチヒロが言った。それを聞いて、リョウタの足が止まった。
別々の電車に乗った。
リョウタは、そっと自分の唇に触れた。
今まで、そんなにたくさんの恋をしてきた訳じゃない。だけどなぜだかあの瞬間、チヒロとキスをしていた。
「怒ったかな? チヒロ」
確かにキスをしたとき、チヒロは驚いたのかリョウタの頬に平手打ちをした。そして何も言わずに駆け出して行った。
まだ少し痛みの残った頬に手をあて、リョウタの頭は混乱していた。
「チヒロ、ゴメン」
出入り口付近にある座席のポールにもたれ掛かったまま、リョウタは小さな声で謝っていた。
自分の心の動き、視線、手や足の位置。リョウタはふと、今の自分を省みえていた。
突然のキス。驚いた娘の見開いた瞳。そして、張り手。
想像が補ってくれることもあるけれど、その多くは意識して感じることであった。
チヒロを好きになっていくリョウタは、今の気持ちさえ客観的な目で感じ取ろうとしていた。そこにどんな線が描けるのか。そう思うと、当たり前の生活がまた別のものに感じられてくるのだった。
