こんばんは^^
昨日は椅子からコケて、今日は滑って転んで両足ざっくり擦りむいた
なんとなくツイてない、どーも私です
でもでも、明日から3連休
切り替えて楽しむぞー
と、その前に「殺生石」感想だ
すでに記憶があやふやなんですけどwww
言い訳しないで、行ってみよ~
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
~京都編~
まず演者さんの位置ですが。上手側が大ちゃん。
下手側に津田さん。そしてセンターに甲斐田さんでした。
物語の中心は、九尾(玉藻の前)と源秀親。
赤いライトに照らされた、九尾(玉藻の前)の
~人は仏の知恵を得、闇を葬ろうとする驕りが見える。
智慧とはすなわち、闇である自分の敵。
敵を打つためには、敵を知らなければならない。
敵の知恵を得た今、仇を打とう。
万物を滅ぼし、混沌の世界に戻すために。~
(私的意訳)
というセリフから始まりました。
そして、泰成の視点で物語が展開していきます。
ある夜、帝の容態が急変したことを受け、友人でもある源秀親と共に御所へ向かいます。
その道すがら、臈長け、才気にあふれる玉藻の前と帝の出会いから、玉藻の前のまつわる噂を聞きます。秀親の隠された思慕と共に。
宮中は鬼の住処、帝の寵愛を巡って女の情念が渦巻く場所。そして、男達が出世のために修羅になっていく場所。
九尾にとって、自分の野望を叶える場所として最高の場所ではなかったかと思います。
永の時を生きて、自分の敵を見定め、敵を知り着々と破壊への道筋をつけてきていました。
3人が初めて顔を合わせた時、天竺編でもあった、光と闇の攻防が繰り広げられるのです。
その顔合わせを演出するのが、琴の音。
残念ながら、泰成と秀親のやり取りに集中して、実際の琴の音は聞き逃してしまいました。
舞台にお琴あったんですよ~
なのに琴の音を覚えてない。。。(_ _。)
でも琴を弾く玉藻の前の姿が、彼らの言葉とそのリズムによって、琴の音と共に浮かびあがってきました。
そして、二人が感じる玉藻の前の琴の音の感想。。
陰陽師である泰成は「妖しい」と感じ、秀親は「物悲しい」と言う。
泰成は自分の対極にあるものを見、秀親は九尾本人さえ知らない、その本質を感じていたんではないかと思いました。
天竺編での普明王と牛飼いの生まれ変わりである彼らの感想と思うと、より九尾に対する感情を明確にしているな~って思いました。
話をしつつ殿上し、帝の容態を確認。泰成は妖の正体を確信します。
いよいよ紫宸殿(だと思う)での、九尾と泰成の対決です。
帝の病が妖の仕業であることを伝える泰成。
しかし、玉藻が九尾である事を確信しているにも関わらず、帝の寵愛を受けている女性を。友人である秀親が想いを寄せている女性を。
「妖」と断言してもいいのか、と言う泰成の一瞬の躊躇に九尾が付け込みます。
ここのやり取りは本当に手に汗握る迫力がりあした。
ここでも優位に立つのは泰成。
帝の側にいると言い張る九尾を、上手く白砂に誘導し、結界で動きを封じました。
ここで出ました。大ちゃんの九字切り
(← 今は関係ないよ
)
矢を放ち護符と共に貫けば、九尾を調伏出来る寸前。
秀親が矢と九尾の間に立ちはだかり、自分の命と引き換えに、九尾の命を救ったのです。
この京都編、自分の野望のために頑張る九尾がとても切なくて。
「仏の智慧。つまり光が怖い。ならば光が何なのか知ろう。」
孫子の兵法ですね。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
でも九尾は、敵を知る事ばかりに熱中したのではないかと思います。
自分の内側を見ることをしなかったのではないかって。
最後の場面で叫ぶんですよ「この光が欲しかった」って。九尾が。。。
この言葉って、私には「自分が嫌い」って聞こえました。
同じものでありながら、自分とはまったく違う「光」に憧れ、自分がとても醜く感じてたんじゃないかって思います。
だから、光の智慧を得た人間の住む世界を破壊したかった。
まあ、これは自分が読んできた九尾のお話と「殺生石」の九尾を重ねたからだと思うんですけど。。。
なんかね、このシーン、ちょっと痛かったです。
自分を振り返っちゃった。
上ばっか見て、他人ばかり羨ましがってる自分がいるんじゃないかって。
そして、泰成と秀親。
天竺編では牛飼いの男(秀親)は傍観者でしかありませんでした。
おそらくカーストの最下位に属する彼は、王族に属する九尾と普明王とは住む世界が違いますから。
ですが今回は、帝の寵姫・殿上人・陰陽師として、ほぼ同じ立場です。
秀親は「足るを知る」人だと思いました。
人に対しても、自分に対しても、あるがままを受け止める人。
噂に振り回されず、自分の感覚を信じる人かな。
この辺りは、牛飼いの男と共通するかなと思います。
泰成は、光の立場で闇に関わる人(陰陽師ですから~^^)
ただ普明王と違うのは、ひたすら光の立場から苦しむものに心を寄せるのではなく、自らも手を汚しているという事。
だからかな、普明王より人間臭く感じました。
そしてそして。。
ここ一番言いたいこと
九尾が仏法を学んだように、泰成もまた闇の力を学んでますよね。
これって、絶対的な「闇」と「光」が、その身に自分と真逆の性質を取り入れたってことですよね。
純粋な「闇と光」では無くなってきているけれど、性質としては安定に向かってるんだと思いました。
秀親と同じ、光と闇のバランスが取れた「人の心」持ちつつあるのかなって。
「陰陽」と「3つの魂」のバランスがこの京都編のカギかな~って思います。
さてさて、あとは~那須野編~を残すのみ。
頑張るぞー
昨日は椅子からコケて、今日は滑って転んで両足ざっくり擦りむいた

なんとなくツイてない、どーも私です

でもでも、明日から3連休

切り替えて楽しむぞー

と、その前に「殺生石」感想だ

すでに記憶があやふやなんですけどwww
言い訳しないで、行ってみよ~

━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
~京都編~
まず演者さんの位置ですが。上手側が大ちゃん。
下手側に津田さん。そしてセンターに甲斐田さんでした。
物語の中心は、九尾(玉藻の前)と源秀親。
赤いライトに照らされた、九尾(玉藻の前)の
~人は仏の知恵を得、闇を葬ろうとする驕りが見える。
智慧とはすなわち、闇である自分の敵。
敵を打つためには、敵を知らなければならない。
敵の知恵を得た今、仇を打とう。
万物を滅ぼし、混沌の世界に戻すために。~
(私的意訳)
というセリフから始まりました。
そして、泰成の視点で物語が展開していきます。
ある夜、帝の容態が急変したことを受け、友人でもある源秀親と共に御所へ向かいます。
その道すがら、臈長け、才気にあふれる玉藻の前と帝の出会いから、玉藻の前のまつわる噂を聞きます。秀親の隠された思慕と共に。
宮中は鬼の住処、帝の寵愛を巡って女の情念が渦巻く場所。そして、男達が出世のために修羅になっていく場所。
九尾にとって、自分の野望を叶える場所として最高の場所ではなかったかと思います。
永の時を生きて、自分の敵を見定め、敵を知り着々と破壊への道筋をつけてきていました。
3人が初めて顔を合わせた時、天竺編でもあった、光と闇の攻防が繰り広げられるのです。
その顔合わせを演出するのが、琴の音。
残念ながら、泰成と秀親のやり取りに集中して、実際の琴の音は聞き逃してしまいました。
舞台にお琴あったんですよ~

なのに琴の音を覚えてない。。。(_ _。)
でも琴を弾く玉藻の前の姿が、彼らの言葉とそのリズムによって、琴の音と共に浮かびあがってきました。
そして、二人が感じる玉藻の前の琴の音の感想。。
陰陽師である泰成は「妖しい」と感じ、秀親は「物悲しい」と言う。
泰成は自分の対極にあるものを見、秀親は九尾本人さえ知らない、その本質を感じていたんではないかと思いました。
天竺編での普明王と牛飼いの生まれ変わりである彼らの感想と思うと、より九尾に対する感情を明確にしているな~って思いました。
話をしつつ殿上し、帝の容態を確認。泰成は妖の正体を確信します。
いよいよ紫宸殿(だと思う)での、九尾と泰成の対決です。
帝の病が妖の仕業であることを伝える泰成。
しかし、玉藻が九尾である事を確信しているにも関わらず、帝の寵愛を受けている女性を。友人である秀親が想いを寄せている女性を。
「妖」と断言してもいいのか、と言う泰成の一瞬の躊躇に九尾が付け込みます。
ここのやり取りは本当に手に汗握る迫力がりあした。
ここでも優位に立つのは泰成。
帝の側にいると言い張る九尾を、上手く白砂に誘導し、結界で動きを封じました。
ここで出ました。大ちゃんの九字切り


矢を放ち護符と共に貫けば、九尾を調伏出来る寸前。
秀親が矢と九尾の間に立ちはだかり、自分の命と引き換えに、九尾の命を救ったのです。
この京都編、自分の野望のために頑張る九尾がとても切なくて。
「仏の智慧。つまり光が怖い。ならば光が何なのか知ろう。」
孫子の兵法ですね。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
でも九尾は、敵を知る事ばかりに熱中したのではないかと思います。
自分の内側を見ることをしなかったのではないかって。
最後の場面で叫ぶんですよ「この光が欲しかった」って。九尾が。。。
この言葉って、私には「自分が嫌い」って聞こえました。
同じものでありながら、自分とはまったく違う「光」に憧れ、自分がとても醜く感じてたんじゃないかって思います。
だから、光の智慧を得た人間の住む世界を破壊したかった。
まあ、これは自分が読んできた九尾のお話と「殺生石」の九尾を重ねたからだと思うんですけど。。。
なんかね、このシーン、ちょっと痛かったです。
自分を振り返っちゃった。
上ばっか見て、他人ばかり羨ましがってる自分がいるんじゃないかって。
そして、泰成と秀親。
天竺編では牛飼いの男(秀親)は傍観者でしかありませんでした。
おそらくカーストの最下位に属する彼は、王族に属する九尾と普明王とは住む世界が違いますから。
ですが今回は、帝の寵姫・殿上人・陰陽師として、ほぼ同じ立場です。
秀親は「足るを知る」人だと思いました。
人に対しても、自分に対しても、あるがままを受け止める人。
噂に振り回されず、自分の感覚を信じる人かな。
この辺りは、牛飼いの男と共通するかなと思います。
泰成は、光の立場で闇に関わる人(陰陽師ですから~^^)
ただ普明王と違うのは、ひたすら光の立場から苦しむものに心を寄せるのではなく、自らも手を汚しているという事。
だからかな、普明王より人間臭く感じました。
そしてそして。。
ここ一番言いたいこと

九尾が仏法を学んだように、泰成もまた闇の力を学んでますよね。
これって、絶対的な「闇」と「光」が、その身に自分と真逆の性質を取り入れたってことですよね。
純粋な「闇と光」では無くなってきているけれど、性質としては安定に向かってるんだと思いました。
秀親と同じ、光と闇のバランスが取れた「人の心」持ちつつあるのかなって。
「陰陽」と「3つの魂」のバランスがこの京都編のカギかな~って思います。
さてさて、あとは~那須野編~を残すのみ。
頑張るぞー
