『ダウン・ツ・へヴン』 森博嗣 中央公論新社 より引用。
気がつくと、右手が痛い。
草の茎を握り締めていた。手を広げて指先を見る。
血が滲んでいた。
いつ怪我をしたのかわからなかった。
怪我というのは、いつだってそうなんだ。知らないうちにこっそりやってきて、知らないうちに躰の中に入り込んでくる。
痛いな、と気がついたときには、もうすっかり自分のものになっていて、口に含んでやりたくなるくらい可愛く思えてしまう。
そうやって人を騙す力が、怪我にはある。
真っ黒な
澄んだ瞳。
その中に、
空がある。
そこへ
墜ちていけるような。
髪とか、爪とか、切らなければならないものが躰の一部としてあるなんてことが、とても不思議だ。
纏いつくことで、きっと得られるものがあると信じているのだ。あるいは、そう信じたい。信じられることで安心したいのだ。
ああ、なんて、ねっとりとした気持ち。
べとべとしている。
地上は、ねっとりと濁っていて。
なにもかもが、ねばっこくて。
切り離されることを恐れているかのようで。
一人だけになることを避けようとして。
結果的には、もっともっと寂しいものを集めてしまう。
お墓が集まった墓地みたいに賑やかな寂しさ。
だけど、
それが悪いなんて思わない。
それが普通かもしれない。そんな気もする。
もちろん、可哀想でもないし、惨めでもない。
どちらだって良いこと。
僕は、ただ、
そんな場所にいたくないだけだ。
ようやく僕の躰が、今頃になって自分の怪我だと認めたくなったのかもしれない。時間が経たないと、痛く感じないものって多い。つまりは、基本的に人間というやつは鈍いからだ。メーターやセンサのようにはできていない、ということ。
僕たちは、この永遠に続く連鎖を恐れてもいる。
どこかで、抜け出したいと考えている。
それもやはり確かな感覚なのだ。
命は誰でもがただ一つきりで、条件は同じなのに、何故か、死を想うときの距離感が異なっている。
それは、やはり、繰り返されるサイクルを、自分の意志で止めよう、という動機だろうか。
一度、死を確かめてみたい。
でも、一度しかできない。
それは、同じ。
一度しか出来ないのであれば、
自分が一番尊いと思えるものに捧げるのが道理ではないか。
考えたことを幾度か口にしようと思ったけれど、それはやはり無理だった。少なくとも、今この場で、すぐに理解はしてもらえない。言葉をどんなに尽くしても、絶対に本当のところは伝わらないだろう。なにしろ理解よりもまえに、嫌悪や懐疑、あるいは同情が入り交じる。そういった余計な感情が理解を妨げるのだ。あるところまで話すと、もう言葉の意味を受け入れてもらえなくなる。そうにきまっている。いつもそうなのだ。
人間は、社会という名前の水槽の中で、安全と平和に縋って生きている。水槽の中で生まれ、水槽の中で育った人間に、どうして、外のことがわかるだろう。
否、わかる。
それがわかるのが、にんげんではないか。
子供のときから、全ての人間は、外を知っている。本当の自由を予感している。
だからこそ、大空へ飛び出していく者がいるのだ。
子供はみんな、空を飛ぶ夢をみるのだ。
飛べるようになるまで、
あるいは、
飛べないと諦めるまで。
※いつも気に入ったフレーズを携帯メモに残すんですが、メモ機能がいっぱいになってしまい、どこにメモしようか悩んだ末、全く未使用なアメブロに保存することを思いつきました、
が、
著作権とか細かいことがわかりません・・・
引用って、まずいですか???
個人的にはすごく考えさせられたり、感動したりした文章たちなんで、Passive(Activeの反対の意で)な形でも、発信できればいいなぁ、くらいにしか考えてないんで、
誰かの権利を侵害しようなんて気は一切ないんだけど・・・
誰か詳しい方、問題あるようなら忠告頂ければありがたいです。