さて2012年ももう終わってしまおうとしているが、今年わたしがみつけた中でもっとも良かった音楽についてちょっと語ってみたい。こうしたことを語ってみたいがどこにもだれにも吐き出す場所というものがなかった。自分の気持ちをまとめるためにこうしたブログを始めてみることにする。
友川かずき 青春
この歌である。聴きながら読んでいただけるとありがたい。
歌詞はこうだ。
http://www1.linkclub.or.jp/~kury/ct/abunaiuta/seishun.html
たぶんタイトルを伏せてこの曲を聞かされれば、この歌のタイトルが青春だなんて誰も思わないんじゃないだろうか?青春と名のつく曲はたいてい、明るかったり切なかったり甘酸っぱかったり、思春期の痛みや恋やがテーマになるものだろう。何故ならたいていの人の青春というものはそういうものだからだ。いわばマジョリティ側の青春群像である。多くの者が経験し、多くの者が憧れるようなものだ。
しかし、マジョリティ側の青春があれば当然その光の陰となる部分でうごめいているものがある。我々のような、マイノリティ側の青春だ。当然、リア充的感性からかけ離れたところにある我々の青春というものは、暗い。そして何も無い。だから鬱屈している。
そしてもちろん、私の青春もそうであった。マイノリティ側の、ただひたすら暗く鬱屈した日々。それが私のすべてであり、そうしたものが私の青春であった。
好きだの愛してるのだの、人生ハッピーだの一生友達だの、そういった充実した青春は、自分たち非リア側には関係のないものだった。多数派の青春模様など何ら心をうたない、遠い世界の絵空事としか感じ得ないものであったのだ。
この歌は、暗い。そして鬱屈している。
どうみても鬱屈していて、孤独で、寂しさをさけんでいる。
だけれど、こういう青春もあるのだいうこと。
我々の青春というものはこういうものだったのだ。
私の知る限り、今までこういった我々のための歌というのはなかった。何故なら、音楽というのは商業主義的なものにならざるをえない世界だろうし、マジョリティ向けに訴えかけるものが求められ発信され宣伝されやすいからだ。友川かずきさんの歌というものはその真逆をいっている。
だからこそ胸に迫ってくるし、言葉が刺さる。彼の音楽はほかのものもすごい。
実際、友川かずきさんのデビューアルバムは数百枚しか売れなかったという。こんなすごい音楽・言葉がたったそれだけしか売れない。たったそれだけしか売れなくとも彼は自分の表現をやってのけた。聞けば戦場のメリークリスマスという映画への出演が打診されたこともあったというが、秋田弁を直すことを条件にされたため断ったとかいうエピソードもある。彼は、お金儲けのために自分のアイデンティティや表現すべきものを曲げなかったということ。凄くかっこいいことだ。
さて、青春というこの歌の世界観についてに話を戻そう。
まず、「あれは俺じゃないか・・?」と町で見かける他人に自分を投影してしまい、おいもっと頑張れよ!と他人に、そして自分に叱咤してしまうところから始まる。
あれは、俺だ。これも、俺だ。俺もっとがんばれよ・・という鬱屈の放射・発散。どこまでいっても、俺・俺・俺。それ自体強烈なのだが、歌が進むにつれその「我々の青春」の現況はより悲惨さをあらわにしてくる。
苦しいのは みんな苦しいんだぜ
淋しいのは みんな淋しいんだぜ
悲しいのは みんな悲しいんだぜ
おいもっと頑張れよ
みんな苦しい。みんな寂しい。みんな悲しい。
それでも、いやだからこそか。もっとがんばれよと友川かずきが叫びをあげる。
お前たちもおれも、みんな立場はいっしょだぜ。
もっとがんばれよとがんばれない自分たちを叱咤する。
こんな歌ってあるだろうか。今にも死を選んでしまいそうな逆境に生きる者どもにかける激励の言葉、そういうふうにしか感じられない。この凄み。この、マイノリティ根性。これが心をうつ。
ここまではあれは俺じゃないか?とパチンコ屋の前をギターぶらさげて歩いてる男や、ツルハシを持ってトラックの荷台に居る男に自己を重ね合わせるという歌詞だったが、ここからは恐らく、より友川かずきさん本人の「青春」に近い情景ではないかと想像する。
川崎の四畳半で包丁を朝から研いで、寂しいからって夢を輪切りにして悔しいからって自分を細切れにして。なんと悲痛で孤独な青春だろう。それでも「もっとがんばる」ために四畳半で虎視眈々と包丁を研ぐしかないのだ。東京ではなく、川崎で。
そしてこう続ける。
ああそれでも ゴキブリ一匹殺せないじゃないか
ゴキブリを殺せない、これは言葉通りに受け取るのではなく比喩として受け取るべきなのではないか。そう気づいたのは、これに続く2回もの「殺せるなら殺してみろ!」のせいだ。ここを聞いてみればわかるが、真に迫りすぎている。絶対にゴキブリを殺せるなら~という意味ではないと気づく。つまり、俺(ゴキブリのような存在だと思うか?)を殺せるなら殺してみろ!との叫びだ。潰せるものなら潰してみろ!という絶叫だ。暗い川崎の四畳半で。未来をそれでも夢見ながら。
もともと友川かずきさんの歌にはそういう比喩が他にも見られる。この歌よりもっと有名な歌に、トドを殺すなという歌がある。これもトドと我々を重ね合わせて歌われた歌だ。トドは別になにも悪いことはしないのだけれど、そこにその群れが居るだけでそこらへんに居る魚を食い尽くしてしまったりする。これが害になるということで、役に立たないし邪魔だから、何も悪いことはしてないけど殺してしまう。そういうことから我々の姿と重ね合わせ、「俺たちみんなトドだぜ?トドを殺すな」と叫びをあげるという歌だ。
この青春というのは、どういう歌か。
それは、殺せるなら殺してみろ!に集約される。
孤独で、暗くて、鬱屈した青春を送っている自分たち。送ってきたわたしたち。
こんな我々を殺せるなら殺してみろ!殺せないくせに!
そうして鬱屈しながらマイノリティ側から世を眺め人生を送ってゆく。
そういう歌だろう。
明るい青春があればこんな暗い青春もある。そういう当たり前のことを歌にしてくれている。
そしてそれは、私たちの心に響き渡り、マイノリティの我々に大きな共感を呼び起こさせるのだ。
私はこの歌が好きでたまらない。
そしてこの歌の最後には、今の自分にあるものをひとつひとつ数え上げて終わる。
愛、寂しさ、空、苦しさ、悲しさ、夢、人生、そして故郷。八郎潟、おじっちゃ・・
そして、東京。そして、消え入りそうな声で青春がひとつ。
青春がここに、ひとつ。確かにここにひとつ。
暗い青春でも鬱屈した青春でも、青春だ!そうだろう?
※追記
グーグルで検索したところ、なんとこの歌が記念すべきデビューアルバムの第一曲目であるというではないか!なんということだろう。これはぐうの音もでない。すごい。
