英語を第2外国語とするアジア30カ国の中での
日本人の英語レベルをご存知でしょうか?
TOEFUL、TOEICのレベルでのデータを見ました。
なんといずれも万年ほぼ最下位です。
中国、韓国にはもちろんあの経済封鎖を受けている北朝鮮にも
到底及ばないのです。
私は、長年学生たちに同行してきました。
私は、この歳になっても学生たちと同じように
ホームステイやファームステイをして来ました。
引率の英語の先生や関係者は、ホームステイを
嫌いますので、ホテルに滞在をします。
現地では、毎朝車で引率者を迎えに行って
日中のプログラムに合流させるのです。
学生たちの、私が数十年前に味わった
英語の使えない現実のショックに毎回立ち会ってきました。
一時期は、学校の先生方や引率関係者に
この日本人の英語レベルの現実を見てほしいと
息巻いたものです。
しかしよくよく考えるとこれは、英語を指導してきた
先生方の個人の責任ではありませんでした。
もっと言えば、今指導している関係者や先生がたが
(私達大人も含めて)一番の犠牲者だったのです。
子供の時から公教育で英語は学問として
学校で教えられてきました。
教えられた来たことは、必ず評価をしなければなりません。
それが試験です。
試験には、必ず『よく出来ました。平均に至っていません。』
『合格、不合格、』が伴います。
それが、高校受験、大学受験そして入社試験なのです。
試験には、出来た!出来ない!得意だ!苦手だ!
難しい!の感情を必ず植え付けてしまいます。
英語はコミュニケーションの方法の一つです。
私達が普段使っている日本語は
コミュニケーションレベルでこのような評価を
いちいち考えてつけるでしょうか?
私は、英語を
自転車や車の免許を取るのと同じように考えます。
子供の頃自転車に乗りたいと思うようになります。
その時に、回りの大人が
『自転車に乗れるようになりたいのなら、まずこの
テキストから重力やバランス行動学の基本ルールからまず覚えなさい!』
と言われたら、子供達は自転車に乗りたいという
願望を維持していけるでしょうか?
もしそれに従ったら本当に自転車に乗れるようになるの?
と聞かれたらなんと答えられるのでしょうか?
確かにそれを町中や道路で乗るなら、交通ルールや
法規を学ばなければなりません。
しかし私は、道路で乗りたいわけでもなく競輪選手になりたいわけではありません。
田舎の田んぼの畦道で『自転車に乗りたい!』だけなのです。
自動車学校で何百時間テキストで車の構造や交通法規を
学んでも、運転できるようにはならないのです。
学校で習う構文や文法の不要論を唱えているわけではありません。
交通ルールや法律の知識が必要ないのではありません。
今現場で私は、中学時代に学校で習った文法や正しい発音の重要性を痛感しています。
私が数十年間の時間と多額のお金の浪費をした
妄想を私達の子どもや孫にさせたくないだけなのです。
残念ながら私自身の子供には、教えてあげることは出来ませんでした。
そのころは、まだ私自身が妄想のまっただなかにいたからです。
しかし孫には教えられるのです。
そしてそれを今は実際に行っています。
孫は私の大事な臨床実験台に乗っているのです。
スタートしてもう3年程が経っています。
孫達は、英語は楽しい遊びと思っています。
仮面ライダーフォーゼやプリキュアとおんなじくらい
大好きです。
文法を単語も何も教えないのに、
ほとんど私でも出来ない発音を自分で学んでいきます。
母親も父親も、まったくの英語オンチです。
母親は、『うちの子供達は、もしかしたら天才かも!』などというほど
ノーテンキです。
英語はそれほど難しいわけではありません。
日本語のほうがよっぽど難しいと思います。
子供達は、それを3歳4歳で十分生活できる使いこなしができています。
それなのにことさら英語を何年も学んでも
話せないわけがないはずです。
要するに日本人の
『英語は勉強しないと話せない難しいものだ』
⇒『英語が苦手だ』
⇒『英語の成績が悪いから興味がない』
⇒『成績が悪かったから話せない』
・・・という思い込み感情を生み
⇒ ⇒『一生懸命勉強すれば話せるだろう』
という妄想まで作り上げています。
すべてが間違いだと気が付きました。
周りの大人や親が子のちょっとしたことに
気がつくだけで
子供達に革命的な変化が起きるのです。
これは、英語が変わったのではなく、英語が教育として
日本に取り入れられた時代から、いまの社会の英語の
ニーズが変わっただけなのです。
この変化に、日本の教育制度も気がつき始めています。
しかし制度が変わるには、10年単位での時間が必要です。
いまの子どもたちには間に合いません。
それをお母さんが気が付きさえすれば、
明日から少なくとも自分の子供には伝えることができるのです。
日本人の英語レベルをご存知でしょうか?
TOEFUL、TOEICのレベルでのデータを見ました。
なんといずれも万年ほぼ最下位です。
中国、韓国にはもちろんあの経済封鎖を受けている北朝鮮にも
到底及ばないのです。
私は、長年学生たちに同行してきました。
私は、この歳になっても学生たちと同じように
ホームステイやファームステイをして来ました。
引率の英語の先生や関係者は、ホームステイを
嫌いますので、ホテルに滞在をします。
現地では、毎朝車で引率者を迎えに行って
日中のプログラムに合流させるのです。
学生たちの、私が数十年前に味わった
英語の使えない現実のショックに毎回立ち会ってきました。
一時期は、学校の先生方や引率関係者に
この日本人の英語レベルの現実を見てほしいと
息巻いたものです。
しかしよくよく考えるとこれは、英語を指導してきた
先生方の個人の責任ではありませんでした。
もっと言えば、今指導している関係者や先生がたが
(私達大人も含めて)一番の犠牲者だったのです。
子供の時から公教育で英語は学問として
学校で教えられてきました。
教えられた来たことは、必ず評価をしなければなりません。
それが試験です。
試験には、必ず『よく出来ました。平均に至っていません。』
『合格、不合格、』が伴います。
それが、高校受験、大学受験そして入社試験なのです。
試験には、出来た!出来ない!得意だ!苦手だ!
難しい!の感情を必ず植え付けてしまいます。
英語はコミュニケーションの方法の一つです。
私達が普段使っている日本語は
コミュニケーションレベルでこのような評価を
いちいち考えてつけるでしょうか?
私は、英語を
自転車や車の免許を取るのと同じように考えます。
子供の頃自転車に乗りたいと思うようになります。
その時に、回りの大人が
『自転車に乗れるようになりたいのなら、まずこの
テキストから重力やバランス行動学の基本ルールからまず覚えなさい!』
と言われたら、子供達は自転車に乗りたいという
願望を維持していけるでしょうか?
もしそれに従ったら本当に自転車に乗れるようになるの?
と聞かれたらなんと答えられるのでしょうか?
確かにそれを町中や道路で乗るなら、交通ルールや
法規を学ばなければなりません。
しかし私は、道路で乗りたいわけでもなく競輪選手になりたいわけではありません。
田舎の田んぼの畦道で『自転車に乗りたい!』だけなのです。
自動車学校で何百時間テキストで車の構造や交通法規を
学んでも、運転できるようにはならないのです。
学校で習う構文や文法の不要論を唱えているわけではありません。
交通ルールや法律の知識が必要ないのではありません。
今現場で私は、中学時代に学校で習った文法や正しい発音の重要性を痛感しています。
私が数十年間の時間と多額のお金の浪費をした
妄想を私達の子どもや孫にさせたくないだけなのです。
残念ながら私自身の子供には、教えてあげることは出来ませんでした。
そのころは、まだ私自身が妄想のまっただなかにいたからです。
しかし孫には教えられるのです。
そしてそれを今は実際に行っています。
孫は私の大事な臨床実験台に乗っているのです。
スタートしてもう3年程が経っています。
孫達は、英語は楽しい遊びと思っています。
仮面ライダーフォーゼやプリキュアとおんなじくらい
大好きです。
文法を単語も何も教えないのに、
ほとんど私でも出来ない発音を自分で学んでいきます。
母親も父親も、まったくの英語オンチです。
母親は、『うちの子供達は、もしかしたら天才かも!』などというほど
ノーテンキです。
英語はそれほど難しいわけではありません。
日本語のほうがよっぽど難しいと思います。
子供達は、それを3歳4歳で十分生活できる使いこなしができています。
それなのにことさら英語を何年も学んでも
話せないわけがないはずです。
要するに日本人の
『英語は勉強しないと話せない難しいものだ』
⇒『英語が苦手だ』
⇒『英語の成績が悪いから興味がない』
⇒『成績が悪かったから話せない』
・・・という思い込み感情を生み
⇒ ⇒『一生懸命勉強すれば話せるだろう』
という妄想まで作り上げています。
すべてが間違いだと気が付きました。
周りの大人や親が子のちょっとしたことに
気がつくだけで
子供達に革命的な変化が起きるのです。
これは、英語が変わったのではなく、英語が教育として
日本に取り入れられた時代から、いまの社会の英語の
ニーズが変わっただけなのです。
この変化に、日本の教育制度も気がつき始めています。
しかし制度が変わるには、10年単位での時間が必要です。
いまの子どもたちには間に合いません。
それをお母さんが気が付きさえすれば、
明日から少なくとも自分の子供には伝えることができるのです。