去る3月27日に歌手のしばたはつみさんが亡くなりました。

私はしばたさんの曲というと映画「化石の荒野」の主題歌が

真っ先に思い出してしまいます。

この頃の角川映画では劇中の盛り上がるシーンに

その主題歌を流すという

メディアミックス戦略の一環なのか

あざとい演出だとか言われてましたが

私は好きでしたね。

蘇える金狼、人間の証明、野生の証明

戦国自衛隊、白昼の死角・・・

映像と共に思い出される主題歌があるというのはいいことだと思います。

歌詞の内容もその映画に密接に絡み合っていて

当時、多感な季節を送っていた私は色々な想いと共に

それらの曲を聴いてしまいます。

去年、山梨のとある山に登った時に山小屋で一泊したとき

夕暮れ、甲府盆地に光が灯りはじめ、富士山が黒々とした

二等辺三角形として赤みの増した空にその偉容を表したときに

携帯プレーヤーで聴いていたのが「化石の荒野」でした。

絶景の中で聴く角川映画の主題歌って

いいんですよこれが


マカロニウエスタンの魅力の一つに、その音楽があります。

効果音を巧みに織り込んで

ヒロイズムの裏の哀感も表現するという

情感溢れる旋律は

映像ありきで制作された劇伴音楽としては

希有の存在感を漂わせ

荒野の用心棒では本家の黒澤の用心棒の

三船敏郎より遥かに少ない台詞のイーストウッドの

心情を音楽で表現するという

実に粋な演出をやってくれました。

予算の制約が多い劇伴音楽では

少ない編成でも聞かせてくれるマカロニウエスタンの音楽は

日本でも時代劇、アニメ、特撮等にパクられまくりまして

当時の子供であった私はそのルーツも知らずに

その音楽に馴染んでおりました。

では、その代表的な曲を二つ

どちらも、待ってましたという絶妙のタイミングで

その映像と共に記憶される名曲です。

映像が目に浮かびますよね?



クリイト・イーストウッドの変遷を見るのに良い

3本の映画があります

それは

荒野の用心棒

許されざる者

グラン・トリノ

です。

この3本の映画は最後に

対決のシーンで幕を閉じます

その対決をどう変えていったのか・・・

そこに漢の生きざまが描き出されています。

アクション俳優でスタートしたイーストウッドが

こういう着地点に至ったのは予想外でした

私もこういう風に考え変化しながら歳をかさねていきたいものです。

しかし心にはいつもさすらいの口笛が流れていたい・・・

そう、もう一人引退を宣言してる偉大な俳優さんがいます。


それは


あの、クリント・イーストウッド


です。


えっ、最近も何か映画あったんじゃないの?


と思われる方もいるとおもいますが、


それは監督作品。


イーストウッドは、


2008年のグラン・トリノへの主演を最後に


監督業に専念するとして、俳優引退宣言を


発表しました。


しかし、まあこちらは


復帰の可能性の含みももたせていて


老年の役者を積極的に使わないハリウッドへの


批判としての引退宣言でも


あるようです。


また、イーストウッドという人物に対するイメージって


世代によって全然違うと思うんですよ。


若い人は社会派のウツな映画を撮る人と


とらえてるんじゃないかとも思うんですが


この人は終始一貫して西部劇の人であると思います。


グラン・トリノも現代が舞台の西部劇だと


私はとらえています。

前々回ショーン・コネリーが引退を宣言した


ということを書いたのですが


ショーン・コネリーが出てないことによって


著しく出来が悪くなった映画があります。


それは


「インディ・ジョーンズ/.クリスタルスカルの王国」


です。


スティーブン・スピルバーグの監督作で1番の制作費を


かけながら、どうにもつまらない。


主役のハリソン・フォードがアクションは出来ないし


シリーズのパロディみたいなシーンばかりで


何か最後までノれないまま終わった映画でした。


ショーン・コネリーは最初、この映画でのオックスリー教授の


役どころをインディの父として予定されていたらしいです。


ですがショーン・コネリーが出演を拒んだために


遺影だけの出演となりました。


オックスリー教授はショーン・コネリーのキャラありきで書かれた


物語でのインディの父親の欠けた穴を埋められずに


存在の薄いまま終幕となってしまった


ある意味可哀想なキャラです。




しかし


まあ何ですが


あんな


核実験


の出てくる映画に


出なくて正解かもしれません。


前回に引き続いて映画「小説家を見つけたら」についてですが


ショーン・コネリー扮する、主人公の小説家の


大量の蔵書の中でひときわ目立つ位置に置かれているのが


Yukio Mishima の著作です。


チェーホフやキルケゴールに並んで


三島由紀夫がドーンと置かれているんですよ。


世界で評価されてるんですかね。


確認できるのは AFTER THE BANQUET (宴のあと)


THE SOUN OF WAVES (潮騒)


TheTemple of Dawn (暁の寺)


The Sallor Who Fell From Grace with the Sea (午後の曳航)


等です。


これ、どういう意味で置かれてるんでしょうか。


一般的なアメリカ人が読まない、


東洋の作家の本を読む偏屈な老人という記号として置かれてたら


嫌なんですが、普通のアメリカ人も一度は耳にしたことがある


文学的に価値のある東洋の作家の著作としてだったらいいな。


画面に置かれている全てのものに意味があるといいますが


その意味の後ろにあるものを考えるのもいいものですよ


もし日本映画で作家の本棚にドーンと三島の著作が置かれてたりすると


何か変に勘ぐっちゃいますもんね。



先月の末(1月27日)にJ・D・サリンジャーが亡くなった。


サリンジャーはアメリカの作家で代表作は「ライ麦畑でつかまえて」ですが


多くの人が彼の話題を口にするときに出てくるのが


その世間との交渉を絶った、半生である。


ドロップアウトする少年の内面を描いて栄光をつかんだ彼が


1965年に作品を発表したのを最後とした、その長い沈黙は


人々の興味を引き、映画「フィールド・オブ・ドリームス」にも彼を


モデルとした人物が描かれています。


またもう一つ彼をモデルとしたとおぼしき人物が出てくるのが


「小説家を見つけたら」という映画です。


この映画の小説家はサリンジャーを基にはしていますが


フイクションでその物語は現実とは相反するものです。


現実のサリンジャーは、近所に住む高校生と親しくなったことがあり


女子高生から高校生向け記事を書くとして受けたインタビューを


地元の新聞紙に大々的に掲載されたことに、激怒し交流を絶ってしまったということです。


で、この映画でサリンジャーを基にしたらし作家ウイリアム・フォレスター


を演じたのがショーン・コネリーで、その気むずかしそうな外見が


サリンジャーのイメージにピッタリでした。


またショーン・コネリーはこの後に一本の映画への出演と吹き替えをした後


引退ということで、現在は映画出演を断っているらしいです。


渋い老人の役をやらせたら右に出るものがいない


貴重な才能がとても惜しいと思えるのですが


個人の意向ですので、仕方ありません。


表現者の内面は、外部に出る作品だけで推し量れるものではない様です。


昨日テレビ東京の午後のロードショーで「ソフィーの選択」を


録画し、それを観たのですが


いや~泣けます。名作ですこの映画。


この作品は82年のアメリカ映画なんですが


主演のメリルストリープはこの作品でアカデミー主演女優賞を獲っているというのに


何故かDVD化されていません。


同時期のE.T.やランボーは既に何度もDVD化されているというのに


何故かこの作品に限っては出てないのです。


昨日のテレ東のは150分の作品を90分弱にカットしまくった奴だというのに


全長版を見ようとするとDVDは出てなくてNHK-BSとかをエアチェックしたのを


観るか昔のVHSかLDを観るしかありません。


(VHSは有名ですがLDも89年頃に出たようです、私はこのLDを


90年代の半ばに知り入手しようとしましたがダメでした)


これは本当に不幸としか言いようがないことです。


後世に残すべき名作が消えていこうとしています。


浦沢直樹の漫画「MONSTER」にはこの映画をパクったとおぼしき


シーンがあるのに知名度がないからあまり話題にもなりません。


こんな理不尽なことは許されていい訳がない。


どこでもいいからDVD化してくれないものか


出来れば日本語版吹替収録ありで。

という訳でブログ始めました。


自分のとりとめのない興味の方向について


あれやこれや書いていこうと思います。