ご報告
先日の 1月5日、月曜日
母さんは病院にて
息を引き取りました。
79歳でした。
遡って
12月10日の夜、寝る前、
施設から連絡入って
病院ヘ救急搬送されました。
血中酸素濃度の低下
原因は肺炎でした。
そのまま入院でした。
病院の面会は
入院日から7日後から予約が取れますが、
10分間で2人まで、
1週間に1回の予約のみだったので
兄弟家族が多い私は
この日が最後の母さんとの会話でした。
肺炎は治療で良くはなるけど
間質性肺炎も発見されていて
これはどうにもならないとのことでした。
おまけに圧迫骨折経験者でリウマチ、
糖尿病と認知症、
オンパレードでした。
入院してから7日後、初面会日には
肺炎はだいぶ良くなっていて
安定していた状態でした。
叔母と上の弟が会いに行って
動画を撮ってきてくれました。
ゆっくり諭すような口調でした。
さらにそこから7日後、
2回目の面会は
妹と父さんが会いに行きました。
動画では大きな声で会話をしていました。
子供に戻ったようでした。
その日、担当医師から話がありました。
肺がんがステージ4で
体力的にも
出来る治療はもう無いとの事でした。
うっすら分かっていたので
痛みが辛くないように
過ごせる方向でお願いしてきました。
退院はいつでも出来ると言うことだったので
施設との連絡を取り合っている状態で
年末年始を迎えました。
退院しても酸素と痰取りが必要な状態。
迎え入れる施設の空きは年明け4日から。
送り出す病院は4日の日曜まで休み。
休み明けの5日、月曜から病院が動くので
それから退院の予定が決まる所でした。
3回目の面会予約も休み明けの5日に取ってました。
特に緊急の連絡もなく、
母さんのいない年末年始を過ごして
いよいよ面会日となった5日の朝、
9時頃病院から電話がありました。
状態が良くないので急ぎ面会に来た方がいいとの事でした。
父さんから連絡をもらい
急いで仕事から帰宅する中
弟妹に連絡して
父さんと共に病院ヘ向かいました。
会えた時には反応が無い状態でした。
やっと会えた母さんの
手を握って
声を掛けて
ドラマみたいに目を開けてくれる事を願いながら
母さん
母さん
しか言葉が出なくて
3回目に
母さんと言ったら
ベッドの横のモニターの下の表示が
ツーっと0になって
あれっ?と思ってたら
上の表示も
70
50
40
30
0
ゼロ?!
先生方が入室してきて
確認を始めて
9時58分、御臨終です
と言われました。
家族が間に合ってよかった…
昨日までは
病室で一番大きな声で
話していたらしい。
連休が明けるまでと
思っていたのかな…
でも
曜日も日にちも
覚えていないだろうしな。
野生の感かな。
その後は
またイロイロと連絡をしないと
いけません。
その前に
皆が出ていった病室で
父さんと私残ってました。
母さんの顔を見ながら
父さんは
何やら開いてる口が気になったらしく
一生懸命閉じさせようと
顎を上に押し上げてました。
いやいや、
今は閉じても
放せば開くよ…
気持ちは分かるけど
そこは専門の人に
任せようよ。
その後
看護師さんが
処置をしてくれました。
葬儀社が引き取りに来たのが
12時。
その間に会計を済ませて
病院は終わり。
結局、死因は呼吸不全。
肺がんが大きな影響と
死亡診断書に書かれてました。
その後
母さんが運ばれた葬儀場で打ち合わせ。
終わったのが16時半。
仕事も急に休みをもらったけれど
直ぐに動けてよかったです。
ありがとうございました。
弟妹叔母さんにも協力してもらい
助かりました。
ありがとう。
式は今度の日曜に決まりました。
今は毎日
母さんに見せる写真を
せっせと集めています。
懐かしい写真に
寝ている父さんを起こして
分からない事を聞いたり
独り言を言いながら
笑ったり泣いたりしてます。
今日も夜遅くなってしまった…
明日こそは
早く寝よう。
ではまた
母さんを懐かしむ
オムレツでした
追記
母さんの古い写真です↓
私が産まれる前の時代

母さん 一歳

中学生の時

親戚の家で

社会人の時
なんだろ、洋裁やってたと言ってたな
最後はカラー写真の時代になりました↓
たぶん…
夜遅いから
父さんに聞けないや…


