2歳になった長女が

保育園から

帰ってきてからのこと。




私は

第二子を妊娠しており

つわりがしんどいため、


できるだけおとなしく

過ごしたいと思っていた。



なので、

あんまり良くないのは

わかっていながら、


YouTubeをテレビに繋いで

アンパンマンを見せていた。



そうすると長女は

テレビに集中するため、


私は体を休めたり

自分の時間ができる。





状況が一変したのは、


しまじろうの

ハッピージャムジャムが

流れ始めたときのことだった。




ママ、立っち!


ここ!




もともと、


視力が発達する前の

幼い頃から

YouTubeなどの画面を

長時間見せることが

よくないと言われていた。


しかし

それを見たがるのが

子どもである。



よくないとわかっていても、


子どもの

「みたい!」「やりたい!」

を止めさせるのは、

心苦しいものだった。



それならば、


私がYouTubeより

おもしろいことをやればいい!


と思った私は、



ハッピージャムジャムの

しまじろうよりも


ハッピーすぎるダンスを

習得し披露することで


子どもの興味を

私に惹きつけ


YouTubeやテレビに

依存させないという、


画期的な方法を思いつき

実践していた。





それが今になって

裏目に出たのだ。






マ〜マ!


こっち!


たっち!




容赦ない要求。



この子は

2歳児にして、


一度こうと決めたら

意地でも曲げないのだ。



さすが私の子どもだ。




その頃の私はもう、

お風呂上がりの保湿が

完了していた。


あとは髪の毛にオイルを付けて

乾かすだけだ。


でも暑いから

まだ熱風を浴びたくなくて、


扇風機の前に陣取り、

楽な姿勢をとっていた。



つわりがしんどい以外に、

長女に対応できない理由はない。





よし、

1回だけ踊るか。






基本的に

歌とダンスが

大好きな私は、


軽いつわりくらいなら、


ビブラートをかけて

歌うことで、

横隔膜をふるわせて

まぎらわせていた。



体を動かすことで

まぎらわせたいときは、


小学校のときに

放課後よく友達と踊っていた

簡単なダンス

(恋愛レボリューション21)

を踊っていた。



ハッピージャムジャムの

ダンスなら、


つわりのしんどさを

まぎらわせるには

ちょうどいいかもしれない。




私は、

重い腰を上げ、


長女ちゃんが指差し

指定する位置に立ち、


ハッピージャムジャムを

軽快に踊り始めた。




画面の中の

パフォーマーは、


いかにも暑そうで

動きづらそうな

着ぐるみを着て、


頭には

4頭身になるように

計算されたかのような

大きなかぶりものをしている。



いくらプロであっても、

これだけのハンデがあれば

私は勝てる。


私の方が

キレキレな

ダンスを踊れる。



何より、

私にはしがらみがない。



パフォーマーが

キレキレのダンスを

できない理由は、


物理的な理由ばかりではない。



ちょっと考えたらすぐ

わかることだ。



もしも

みみりんの着ぐるみを着た

パフォーマーが、


キレキレすぎる

ダンスを披露してしまったら、


みみりんの可愛さを

台無しにしかねない。



パフォーマーは、

着ぐるみを着た瞬間から、


あくまでも

キャラクターなのである。


ダンサーではない。



みみりんという

キャラクターを

背負った瞬間から、


ダンスのキレを

遺憾無く発揮することは

できなくなるのである。



パフォーマーの役目は

あくまでも

みみりんとしての魅力を

伝えることなのである。



いくら相手がプロであれ、

プロであるからこその

大きなしがらみが

そこには存在する。



だから私は

この競争において

圧倒的優位に立てる。




私の方が断然キレがいい。


踊っていて、

自分でもわかる。



この優越感に浸ることが、

ひとつの悦びでもある。





ふと気付くと私は、


つわりの辛さを忘れて

全力で

ハッピージャムジャムを

踊っていた。




いつもなら、

そこには快感しかなかった。




しかし、

今日は違っていた。



呼吸が乱れ、

動悸とめまいがした。



落ち着けるため

深呼吸をしようとしても、

肺がふくらむための

潤沢なスペースがない。




そうだ。

私は妊娠している。

つわりもある。



今日はほとんど

水分しかとれていない。

体力にも限界がある。



今日のところは

これで辞めておこう。



そう思って、

一曲踊り終わったところで

ソファに腰を掛けた。



そのときだった。




もっかい!




リモコンを持った幼女が、

キラキラした目を

こちらに向けていた。




私は

その純粋な目に

心を奪われ、


次に自分の短い呼吸音が

聴こえたときには

もう


その差し出されたリモコンを受け取り

巻き戻しボタンを押していた。



数秒の沈黙の後、


カーソルが

0:00を指すと、


私はまた

再生ボタンを押した。




その一連の流れが

行われる間、


私の心は

何者かに支配されていた。




ふと我に返ったとき、


さっき聴き終わったはずの

ハッピージャムジャムの音楽が


もう一度流れ出していた。



初めて聴いたときと

まったく同じ、

真新しい音だ。



まったく同じ音が

鳴っているはずなのに、


そのときの私には、

聴こえ方がまるで違った。



うまく説明できないが、


初めて聴いたときよりも

薄っぺらく、

空元気のようだった。




ソファに腰を掛け、

リモコンを握りしめながら、

ただ画面に

目をやっているだけの

私を置き去りにし、


音楽は容赦なく

進んでいった。




そして、

次の瞬間


現実が私を襲った。




ママ、たっち!




先ほど私に

リモコンを渡した幼女は、


もう私に

キラキラした目を

向けてはいなかった。



眉をしかめ、

私に立って踊るように

要求したのだ。



音楽が始まっているというのに

何をおちおち座っているのだ!


と言わんばかりの

表情だった。




人間というのは

本当に欲深い生き物で、


欲しいものが手に入ると

また次のものが欲しくなる。


それが手に入らないと

機嫌を損ねる。




私はソファから立ち上がると、

さっき尽くしてしまった力を

かき集めるように、


もう一度

ハッピージャムジャムを

踊った。



前回のようなキレは

もうそこにはなかった。



画面の中のパフォーマーに対する

闘争心、嫉妬心、優越感、

すべての感情が


形を変えていた。




さっきまでの自分は、

もうそこにはいなかった。






人の感情とは、

儚いものだ。



状況が変われば、

すぐに心も変わってしまう。



どんなに愛を誓っても、

永遠など

この世に存在

しないかもしれない。



私は

浅い呼吸の中


ふとそんなことを考えた。






朦朧とする意識の中、

私はハッピージャムジャムを

計5回踊っていた。



限界を迎えた私は、

ついにソファから

立ち上がることをやめた。




長女から

キラキラした目を

向けられようと、


逆に

睨まれようと、



立ち上がるために

必要な気力は

もう残されていなかった。





限界を迎えてからが勝負だ…!





どこからか

そんな声が聴こえた。




いつかの彼と

東京へ旅行したとき、


「夜景が綺麗だね」

と寄り添って過ごした

甘い夜を思い出す。



今思えば、

あの夜景はすべて

ブラック企業の輝きである。



彼らにとっては、

定時を過ぎてから、

限界を超えてからが勝負だ。


いつしか

定時という概念は消え、


限界という言い訳は

できなくなる。


人が甘い夜を過ごしている間に

どれだけ自分を追い込めるかが

社畜の醍醐味なのである。



育児もなんら変わりない。


365日24時間体制。

定時という概念はない。

休日という概念もない。


夜中に泣かれれば、

起きて対応するしかない。


それ以外の選択肢は

ないのである。


そこに

労働基準法は

もはや当てはまらない。




これが育児の

現実なのだ。






限界を超えた私は、



ハッピージャムジャムを

踊るのではなく


歌うことにした。





ソファに隣接した

テーブルの上には、


運良く

おままごと用の大根が

転がっていた。



私はおもむろに

それを手に取り、


マイクのように

口元に当てがった。



そして、

ハッピージャムジャムを

歌い始めた。



長女は

それを真似するかのように


おままごと用の

にんじんを当てがった。




そして

私たちは、



ハッピージャムジャムに

それぞれの思いを込めて

熱唱したのである。






お風呂あがりに

オイルを付けられないままでいた髪の毛は、

完全に乾き切っていた。