突然だけど、僕の身長は170cm。
サバ読んでないぞ!猫背なおしたら伸びたから( ̄+ー ̄)

余談はさて置き、スケールとして、僕の世界はどう足掻こうと170cmからは逃れられない。これは可視的にも不可視的にも。

思うに僕は些か視覚に頼りすぎてるみたい。
スケールは一つではない。小さいツブツブの世界では電気的な力や電荷(electric charge)がスケールになってるけど、惑星や桑島ぐらいの重さ(mass)では万有引力がスケールになってくる。
(うちの母親はバンユウインリキっていう可愛い名前で読んでたけど)


多少の違いこそあれ、ヒトはヒトであるので、普通はヒトスケールなるものが存在する。(人間が尺度ではなく、人間のための尺度ね。分詞と動名詞の関係と相似比が1:1って意味で合同。)

バイクがマグカップ位の大きさだと困るし、テストの問題文の文字が春休み明けに提出する書初めのそれ位の大きさである世界があった日には、めいめい日に10回はノウシントウを起こしかねない。


多分、僕らは視覚に頼りすぎてる。用、不用説(the idea of use and disuse)や、獲得形質の遺伝(the inheritance of acquired characteristics)は生物的な進化においては否定されてるけど、社会的あるいは文化的フィールドで否定はでき無いと思う。

例えは情報は手を使って探り、目を使って見るものってのが当たり前だし、赤って言われたらトマトやさくらんぼの味より先にシスのライトセーバーや炎や血が頭にぽわっと出てくる。

つまり、僕の皮膚を境界としてその内側を僕、外側を外界としたら世界のキャリアー(つまり、外と内を繋いで、僕に世界を運んでくるもの)は体の感覚なわけ。

アンテナとしての体。思考や咀嚼より機械的で物質的で脱魔術的な体。

ロドプシンに可視光がエネルギーを与えて、色素中のcisレチナールが異性化してtransレチナールになるような体。


目が悪くなって、通りを歩いて、読みたいものが読めなくなって、そういう体もやっぱりある事に気付く。
やっぱりって所が大切。

なんかの歌にあった。熱が出たりすると僕にも体があると気付く。

なるほどなーと思う。



3月7日

朝から晩まで、ずーーーーっと神田の古本屋街の近くで勉強したり読書したり通りを見たりしてた。

この写真は歩いてる時にとったやつ。


photo:01



photo:02



photo:03



なかなか気に入ってる。




いつもは携帯だから長いの書くのめんどくさいし、パソコンあればもっとマトモな事書くと思うけど、やる事やって、風呂で花粉を落として、一息付つきがてら書くのもなかなかよいです。
でわでわ(・ω・)ノ



a sleeping boy
a swimming pool
a sleeping bag
a swimming boy

ヒトスケール

(ⅰ)
人がスケールする。
人がスケール的である。
人がスケールである。

(ⅱ)
人のためのスケールである。
人を目的としたスケールである。


ほらね。(ⅰ)分詞と(ⅱ)動名詞の関係と同じ



ヒトスケール。
僕の造語なんだけど、Googleで検索しても出てこないので少し嬉しい(*`へ´*)





そうそう。
スケールについて、面白いと思ったら、検索バーにプロタゴラスと打つと幸せになれる。彼の言う尺度は分詞の使われ方だけど。

今度こそ。でわでわ(・Д・)ノ