夏休み最後の日曜日、さすがに深夜ともなると、国際通りや仲見世通り、雷門前の路上のどこを見渡しても人通りはまばらであった。
その浅草のさらに裏通りである。
コンビニのアルバイト店員は、大きなゴミ袋をいくつか抱え、いつもより少し遅れて店の裏口から路地裏へ出ようとした。
ゴミを出したら今日の仕事は終わり。いちばんホッとする時間だ。
彼はゴミ袋を抱え、店の裏口付近に面したゴミ置き場へ急いだ。大きなポリ製のゴミ箱のフタをとって、ゴミ袋の一つを中に突っこもうとして一瞬、息をのんだ。
暗がりの中で何かが蠢いていたのである。
その“何か”はゴミ箱のすぐ裏側にいた。
こわごわと覗きこむと、ジーンズにポロシャツ姿の男がゴミ箱と壁にもたれかかっている。いつものホームレスだった。
といっても、彼がいまのコンビニでバイトし始めたころには、みかけなかった。男の顔をみるようになったのは、ごく最近のことだ。
いまごろ彼がゴミ出しするのを知っているらしく、ホームレスの男は消費期限切れの弁当類目当てにやって来る。
ただ今日は少しだけゴミ出しの時間が遅れた。だから、つい男はゴミ置き場で眠りこくってしまったようだ。
ホームレスの男はすでに目をあけ、立ち上がろうとした。
アルバイトの彼はすこしだけ顔をしかめた。
男が近づくと、彼ら特有の饐(す)えた臭いが鼻孔に満ちてきたからだ。
彼はゴミ袋をいくつか乱暴にゴミ箱の中へ投げ入れると、最後の一つをホームレスの男に差し出した。その袋の中には、消費期限は過ぎているが、何とか食べられそうな食料を選り分けてある。
「サンドイッチ類は大丈夫だと思うけど、弁当は夜明けまでに食べたほうがいいよ。温度があがったらすぐ腐っちゃうから」
彼がそういうと、男は会釈してそのゴミ袋を受け取った。
男が僅かに笑ったように思ったが、気のせいかもしれない。
ホームレスの男はアルバイトの彼より二十歳は上だろうか。意外にほり深く顔立ちは整っている。
ただし、ギリシア彫刻よりも無表情な顔であった。
アルバイトの彼は、ゴミ置き場から店の裏口へむかった。
あとは店の事務室に戻って着替えるだけ。
今日もご苦労さん、と心の中で呟き、ふっと顔を路地の前方にむけた途端、まばゆい明りに目が眩んだ。
車のヘッドライトだ。
けたたましい音とともに乗用車が一台、大通りから、こちらの路地へ曲がりこんできたのだ。
かなりのスピードがある。危ない運転だなと思った。酔っ払い運転なのか。
だとしたらハンドルを取られ、自分のほうへ突っこんでこないとも限らない。
彼は慌てて店の中へ戻ろうとした。
裏口のドアをあける……そのときであった。
タイヤの軋む音がすぐ背後で聞こえ、車が何かに衝突したような音が耳をつんざいた。
嫌な予感が全身をつらぬく。
彼は振り返り、ふたたび裏口から路地へ出た。
車はいったん停車したが、すぐにタイヤの軋む音を残して急発進した。
走り去る車のテールランプとゴミ置き場の前で何かがうつ伏せに倒れているのが確認できた。
倒れているのがさきほどのホームレスだということはすぐにわかった。
「ひき逃げ……」という言葉はかき消され、車はさらにスピードをあげて言問通りのほうへと走り去っていった。
もちろん、ひき逃げした車のナンバーを確認する余裕もなかった。すぐさま彼はホームレスの男のところへ駆け寄った。
名前を呼ぼうとしたが、そんなものは知らない。ほとんど会話をかわしたことのない相手だ。
とにかく、「ねえ、しっかりして! 大丈夫?」と語りかけるのが精一杯であった。
こういうとき、動かしていいのかどうかもわからない。
とにかく男は仰向けに寝て、動かなかった。
生きているのか死んでいるのかもわからない。呼吸を確認しようという勇気もわかない。
ただ、こうして見ているうちにも後頭部から血が溢れだし、アスファルトの上を流れている。
はねられたときにそのまま後頭部を道路の上に打ちつけたのだろう。
(救急車……呼ばなくっちゃ)
かろうじてそれだけの判断はできた。
彼はポケットに突っこんだ携帯電話を取り出し、震える指で一一九番通報した。(つづく)
※「第二回北区内田康夫ミステリー文学賞」の特別賞受賞作品を改題して加筆改稿したものです。