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こころの話

花屋に行きますと立派な花がたくさん売っていますけども、立派な花と申しますのは、いろんな形でもって人間に作られたわけですね。だから立派でございますけども、何かの条件を失いましたら、花を咲かせることもできない。根を張ることもできない。これが立派な花ですよ。ところが雑草と申しますのは、人間にとりまして、価値がないものですから、全然手を加えられていない、と。雑草は、どこへ行っても根を張り、花を咲かせるわけですね。我々も小さな頃からずっと造られてきました。これが分別の世界ですね。自分の頭、分別、でもって全部理解しようとすると。勿論これ大事なんですけども、こと生と死の問題に関しましては、分別をどんなに積み上げても、これはちっちゃな世界でございますね。これが壊されて、あるがままにかえっていくんですね。「あるがまま」というのは、「それでいいんだよ」という方があるかも知れませんですけども、あるがままの上に我々は自分の世界を作っているんですね。これが壊されて、あるがままにかえっていくんですね。西田幾多郎が、「客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである」、客観的世界にかえっていくわけですけども、そうしましたら大きな世界が広がりますよ、と、こういう世界でございますですね。 


偉くなりたい、認められたい、というのは。そういう枠の中でいろいろ取捨選択していたのが、枠がなくなれば、割に自由にいろんな人とも付き合えるし、いろんな仕事にも手が出せる。

わたしは、勉強するだけでなくて、偉くなりたかったんですよ。ところが最初崩されて、二回目崩されて、三回目崩されましたですね。そしてその時には精一杯したというふうな先ず気持があったわけですね。後ですね、失敗して嫌な道にずっと入っていきましたけども、嫌な道に入ってみて、またそこに道があったわけですね。そしてそれがまた崩された。そこで初めて、「あ、人間の世界というのは何をしてもいいんだなあ。どんな仕事をしてもいいもんだね」と、こう思えてきたですね。

人間は立場が欲しい、地位が欲しいですね。自分が偉くなりたいわけですね。偉くなりたい、と申しますのは、他人の目に認めて欲しいわけですね。わたしもこの気持が強すぎましたのですよ。だからかえって自分で苦しめたんですけどね。崩されて崩されて、そして気が付きましたら、いろんな道に入ってみれば喜びがあったわけですね。自分が一番嫌だった道にも喜びがございました。道が開けるんですね....これをやればいいだろう、と思っているものが、何もないところに、かえって自由さがあるでしょうね。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。
(西田幾多郎「善の研究」)

我々は、人間と申しますのは、自然の一部ぐらいしか思っていないわけですけども、それで自分の頭でもって理解しようと、これは壊されて、壊されて、壊されてきて、自然と一致する形ですね。生かされておる、と。あるいは力が湧いてくる、というんですか、何もわからんわけですよ。何もわからないんですけれども、人間はこうなっておるんだなあ、と。植物はこうなっておるんだなあ、と。これを黙って見てまいりました。四月になると孟宗竹が出てきますけどね。あれもの凄い勢いで伸びてくるんですね。グンと伸びていって、ピタッと止まります。それで終わりです。それ以上伸びないんですね。ところが杉なんかですと縄文杉もありますね。何千年も生きている。そういうふうに作られているわけですね。竹がそういうふうに作られている。杉がそのように作られている、人間ってこう作られている。何故か知らんですけどもそう作られておるんですね。見えてまいりました。そうしましたら、矛盾感じたことが矛盾感じなくなりましたですね。わかったわけじゃないんですよ。矛盾感じなくなって、そして問題が問題でなくなりました。そこで生と死の矛盾が解けていったんですけどね。

あるがままにかえりましたら、その人間が全身全霊をもって活動する世界がありますよ。
しかも力強い世界を感じることができる世界が。
花屋に行きますと立派な花がたくさん売っていますけども、立派な花と申しますのは、いろんな形でもって人間に作られたわけですね。だから立派でございますけども、何かの条件を失いましたら、花を咲かせることもできない。根を張ることもできない。これが立派な花ですよ。ところが雑草と申しますのは、人間にとりまして、価値がないものですから、全然手を加えられていない、と。雑草は、どこへ行っても根を張り、花を咲かせるわけですね。我々も小さな頃からずっと造られてきました。これが分別の世界ですね。自分の頭、分別、でもって全部理解しようとすると。勿論これ大事なんですけども、こと生と死の問題に関しましては、分別をどんなに積み上げても、これはちっちゃな世界でございますね。これが壊されて、あるがままにかえっていくんですね。「あるがまま」というのは、「それでいいんだよ」という方があるかも知れませんですけども、あるがままの上に我々は自分の世界を作っているんですね。これが壊されて、あるがままにかえっていくんですね。西田幾多郎が、「客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである」、客観的世界にかえっていくわけですけども、そうしましたら大きな世界が広がりますよ、と、こういう世界でございますですね。 


偉くなりたい、認められたい、というのは。そういう枠の中でいろいろ取捨選択していたのが、枠がなくなれば、割に自由にいろんな人とも付き合えるし、いろんな仕事にも手が出せる。

わたしは、勉強するだけでなくて、偉くなりたかったんですよ。ところが最初崩されて、二回目崩されて、三回目崩されましたですね。そしてその時には精一杯したというふうな先ず気持があったわけですね。後ですね、失敗して嫌な道にずっと入っていきましたけども、嫌な道に入ってみて、またそこに道があったわけですね。そしてそれがまた崩された。そこで初めて、「あ、人間の世界というのは何をしてもいいんだなあ。どんな仕事をしてもいいもんだね」と、こう思えてきたですね。

人間は立場が欲しい、地位が欲しいですね。自分が偉くなりたいわけですね。偉くなりたい、と申しますのは、他人の目に認めて欲しいわけですね。わたしもこの気持が強すぎましたのですよ。だからかえって自分で苦しめたんですけどね。崩されて崩されて、そして気が付きましたら、いろんな道に入ってみれば喜びがあったわけですね。自分が一番嫌だった道にも喜びがございました。道が開けるんですね....これをやればいいだろう、と思っているものが、何もないところに、かえって自由さがあるでしょうね。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。
(西田幾多郎「善の研究」)

我々は、人間と申しますのは、自然の一部ぐらいしか思っていないわけですけども、それで自分の頭でもって理解しようと、これは壊されて、壊されて、壊されてきて、自然と一致する形ですね。生かされておる、と。あるいは力が湧いてくる、というんですか、何もわからんわけですよ。何もわからないんですけれども、人間はこうなっておるんだなあ、と。植物はこうなっておるんだなあ、と。これを黙って見てまいりました。四月になると孟宗竹が出てきますけどね。あれもの凄い勢いで伸びてくるんですね。グンと伸びていって、ピタッと止まります。それで終わりです。それ以上伸びないんですね。ところが杉なんかですと縄文杉もありますね。何千年も生きている。そういうふうに作られているわけですね。竹がそういうふうに作られている。杉がそのように作られている、人間ってこう作られている。何故か知らんですけどもそう作られておるんですね。見えてまいりました。そうしましたら、矛盾感じたことが矛盾感じなくなりましたですね。わかったわけじゃないんですよ。矛盾感じなくなって、そして問題が問題でなくなりました。そこで生と死の矛盾が解けていったんですけどね。

あるがままにかえりましたら、その人間が全身全霊をもって活動する世界がありますよ。
しかも力強い世界を感じることができる世界が。
花屋に行きますと立派な花がたくさん売っていますけども、立派な花と申しますのは、いろんな形でもって人間に作られたわけですね。だから立派でございますけども、何かの条件を失いましたら、花を咲かせることもできない。根を張ることもできない。これが立派な花ですよ。ところが雑草と申しますのは、人間にとりまして、価値がないものですから、全然手を加えられていない、と。雑草は、どこへ行っても根を張り、花を咲かせるわけですね。我々も小さな頃からずっと造られてきました。これが分別の世界ですね。自分の頭、分別、でもって全部理解しようとすると。勿論これ大事なんですけども、こと生と死の問題に関しましては、分別をどんなに積み上げても、これはちっちゃな世界でございますね。これが壊されて、あるがままにかえっていくんですね。「あるがまま」というのは、「それでいいんだよ」という方があるかも知れませんですけども、あるがままの上に我々は自分の世界を作っているんですね。これが壊されて、あるがままにかえっていくんですね。西田幾多郎が、「客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである」、客観的世界にかえっていくわけですけども、そうしましたら大きな世界が広がりますよ、と、こういう世界でございますですね。 


偉くなりたい、認められたい、というのは。そういう枠の中でいろいろ取捨選択していたのが、枠がなくなれば、割に自由にいろんな人とも付き合えるし、いろんな仕事にも手が出せる。

わたしは、勉強するだけでなくて、偉くなりたかったんですよ。ところが最初崩されて、二回目崩されて、三回目崩されましたですね。そしてその時には精一杯したというふうな先ず気持があったわけですね。後ですね、失敗して嫌な道にずっと入っていきましたけども、嫌な道に入ってみて、またそこに道があったわけですね。そしてそれがまた崩された。そこで初めて、「あ、人間の世界というのは何をしてもいいんだなあ。どんな仕事をしてもいいもんだね」と、こう思えてきたですね。

人間は立場が欲しい、地位が欲しいですね。自分が偉くなりたいわけですね。偉くなりたい、と申しますのは、他人の目に認めて欲しいわけですね。わたしもこの気持が強すぎましたのですよ。だからかえって自分で苦しめたんですけどね。崩されて崩されて、そして気が付きましたら、いろんな道に入ってみれば喜びがあったわけですね。自分が一番嫌だった道にも喜びがございました。道が開けるんですね....これをやればいいだろう、と思っているものが、何もないところに、かえって自由さがあるでしょうね。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。
(西田幾多郎「善の研究」)

我々は、人間と申しますのは、自然の一部ぐらいしか思っていないわけですけども、それで自分の頭でもって理解しようと、これは壊されて、壊されて、壊されてきて、自然と一致する形ですね。生かされておる、と。あるいは力が湧いてくる、というんですか、何もわからんわけですよ。何もわからないんですけれども、人間はこうなっておるんだなあ、と。植物はこうなっておるんだなあ、と。これを黙って見てまいりました。四月になると孟宗竹が出てきますけどね。あれもの凄い勢いで伸びてくるんですね。グンと伸びていって、ピタッと止まります。それで終わりです。それ以上伸びないんですね。ところが杉なんかですと縄文杉もありますね。何千年も生きている。そういうふうに作られているわけですね。竹がそういうふうに作られている。杉がそのように作られている、人間ってこう作られている。何故か知らんですけどもそう作られておるんですね。見えてまいりました。そうしましたら、矛盾感じたことが矛盾感じなくなりましたですね。わかったわけじゃないんですよ。矛盾感じなくなって、そして問題が問題でなくなりました。そこで生と死の矛盾が解けていったんですけどね。

あるがままにかえりましたら、その人間が全身全霊をもって活動する世界がありますよ。
しかも力強い世界を感じることができる世界が。

大谷由里子

きどにたちか


けし衣食住


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