#2「繫ぎ止めるもの」

 二階に上がった圭人は目前の部屋の扉をノックした。

「開いてる。」

 奥から小さく声が聞こえた。圭人はゆっくりとドアノブ回し扉を開ける。

「俺って分かった?」

「ノックするのなんて圭人ぐらいしか居ないから。」

 深くベットに座り込んだ春樹がスマホを弄りながら答えた。その目は瞼が半分降りかかっていて、今にも寝てしまいそうな雰囲気だ。それでもいつになく綺麗な顔立ちの春樹は、視線を圭人の方にやった。

「母さんと会った?」

「玄関前でちょうど出くわしたよ。」

 圭人がそう言うと、春樹は餌を待つ子犬のような瞳で彼を見つめた。思わず笑みが溢れてしまった圭人は、勿体ぶるような素振りで鞄から一冊の少年誌を取り出した。

「さっすがだなー。」

 本を受け取った春樹は、悪知恵を働かせる小学生のような笑顔を見せた。愛おしさと卑しさが混在したその表情は、圭人の内にある純粋な感情を逆撫でするようだった。
 春樹は手にした少年誌を捲りながら無言のまま腰を浮かし、少し横の方にずれた。圭人もまた無言のまま、空いたスペースに腰を下ろす。
 傍に置いた鞄の隙間から少し見えるレジ袋のを見つけた春樹は、体を乗り上げ圭人の上を通り、必死に腕を伸ばしてレジ袋からポテトチップスを取り出した。

「食べていい?」

 春樹は澄んだ目でこちらを見つめて言った。

「ダメって言ってもどうせ食べるじゃん。」

 春樹は不敵な笑みを浮かべながら袋を開けた。袋から湧き上がるジャガイモと油の香りに、圭人は脳がやられそうになった。

「……食べないの?」

春樹は大きめのポテトチップスを摘み、彼の前に差し出す。

「手汚したくないからさ。」

「女子かよ。」

 春樹は口に含んだポテトチップスをこぼさないように、器用に笑って見せた。その姿はどこか儚げであり、圭人の持つ春樹への感情を滞りなく締め付ける。

ーーハルキに嫌われることは自分にとって死ぬことも同然なのかもしれない。

 そんな気持ちが圭人の「友達」としての役割を放棄させていた。自分にはハルキを駄目にすることしか出来ない。弄んでるのは自分の方だ。そんな感情が彼の従順な心の中を占めていく。
 良心からの声だろうか。それとも血迷っただけなのか。圭人の中で抑えつけていた言葉が不意に出てしまった。

「学校はどうすんの?」

 今まで明るかった春樹の顔が一転し、曇った表情に変わった。

「来週から行くかも。」

 そう言うと春樹はおもむろに読みかけの少年誌を閉じ、病人のようにベッドに横たわった。それを見兼ねた圭人は咄嗟に

「ゲームでもする?」

と訊いた。顔をシーツに埋めた春樹は

「いやいい。」

と覇気のない声で答えた。それ以上の言葉が出てこなかった圭人は、ただ黙り込むことしか出来なくなった。春樹は微動だにせず、だんだんと降りていく瞼に身を委ねていった。その様子を圭人はただ静かに見つめていた。

 どれだけ時間が経ったのだろう。夕日は完全に落ちてしまい、部屋の中はすっかり暗くなっていた。怖いぐらいの静けさと生温い空気の流れるこの空間の中で、か細い寝息の音だけが部屋の横端で鳴っている。
 圭人は空虚なこの心境を処理することができないまま、真っ暗な部屋の中でただ遠くを見つめていた。春樹の伸ばした足先が腰のあたりに当たり、服の上から僅かな体温が伝わっていた。

 ガチャッ

 突然下で鍵の開く音がした。
 慌てた圭人は、真っ暗な部屋の中で物音を立てながら、急いでブレザーを羽織り鞄を肩にかけて部屋から出た。何を慌てることがあるのだろうか。何に怯えているのだろう。そう思いつつも、圭人の呼吸は運動をした後かのように乱れていた。ゆっくりと扉を閉めようした時、奥から微かに声がした。

「またな。」

 一瞬手が止まった圭人は、そのまま何も答えずに扉を閉め、階段を早足で降りていった。