訪問で輸血をしてくれる医療機関が見つかり、医療用ベッドと、点滴台のレンタルも手配して、在宅治療の準備が整いました。

容態も安定し、義母も気分が良いようでした。

2019年の2月12日、退院し自宅に戻った義母はこれで自宅で輸血をしながら療養できると喜んでいました。

私の目を盗んで、自転車に乗り、こっそり近所のスーパーで買い物までしてました。

私は、これから始まる在宅医療の日々に覚悟を決めました。

それなのに…

すでにその週の終わり、発熱。
輸血したばかりなのに顔面も蒼白。

2019年2月17日。

一週間も立たないうちに再入院。

そして…義母は「もうこれ以上何もしないでください」と。
輸血も含めて。

それは、もう死がすぐ来ることを意味します。

私の覚悟なんて、全く意味がなかった。
在宅医療がいつまで続くのだろう?なんて、考える意味がなかった。

それでも、一週間、10日、まだ、もう少し先?と、どこかで思っていました。

あまりにも早かった。
再度入院した義母は、その週を超えることなく、亡くなりました。

看取ったのは私でした。
泊まり込みの付き添いを夫と交互にしようと言って、夫と交代した日の明け方。

私でよかったのだろうか。
義母にとって、息をひきとるその瞬間に手を握っていたのが私でよかったのだろうか。

一年経とうとする今でも、考えます。

私たちは、相容れないタイプでした。
仕事を辞めず、息子を保育園に預けて、働く私を苦々しく思っていたと思います。
なんでもはっきり物を言い、引くことのない私に、呆れたこともあったと思います。

でも、そこはお互い様ですが(笑)

それなりの対立や確執がありました。
喧嘩をしたこともありました。
私と義母は「合わない二人」でした。表面上はうまくやっていたとしても。

義母が、病に倒れ入退院を繰り返した、最後の9ヶ月間。
私は週に2〜3回は必ず病室を訪れ、いろんな話をしました。
病気に苛立ち、不安になり、投げやりになる義母と1時間以上話したことも何度もあります。

ありがとうという義母に私は何度も言いました。

「私は、私がやりたいと思ったことしかしないんです。よく、ご存知でしょう?」と。

病気の人をいたわるのは、健康な人間としての当たり前のことです。感謝されることではありません。
それを、伝えても伝えても、わかってもらえませんでしたが。苦笑

おそらく、一番腹を割って話した9ヶ月。

合わないけれど。
好きにはなれないけれど。

でも、私は彼女の生き方に敬意の念を抱きます。

「子どもたちに迷惑をかけたくない」

それを貫き通した人でした。
頑ななまでに。

最期は潔く、あっけなく、とにかく…見事なまでの思い切りの良さ。

私は。こんなにも潔くよく死ねるだろうか。

人間は本当に勝手な生き物で、おそらく在宅医療が長引けば私は不満たらたらに思ったに違いありません。
なぜ、私が!と思いながら、義母の代わりに買い物に行ったり、細々した用事を引き受けて、具合が悪い時は食事の支度もしたと思います。

が。

そんな苦労は一切なかった。
不満も愚痴も言われてもらう暇もなく、義母は逝ってしまいました。

こんな表現が正しいかわからないけど。

完敗だ。と、思いました。

もうすぐ一周忌がきます。
心を込めて、供養をしたいと、そう思っています。。。